観光地検索

全日本の観光地へ

1403 件の 85 ページ目 (0 秒)

法泉寺

甲府五山の一つ。武田信玄の先祖武田信武が夢窓国師を開山として建てた寺。境内に信武・勝頼の墓がある。

東光寺

甲府五山の一つ。武田義信の墓地がある。蘭渓道隆(大覚禅師)が再興した。仏殿は国の重要文化財。

円光院

武田信玄が石和にあった成就院を現地に移し円光院とした。信玄の正室三條夫人の墓がある。甲府五山の一つ。

青松院

開基は源信章で藤原時代の名作十一面観音が本尊。甲州33番札所の結縁寺で,七堂伽藍がよく整っている禅院。

加牟那塚

県下第二位の大きな横穴式石室を持つ古墳。県指定史跡。

甲府城跡

天正10年(1582)武田氏滅亡後、豊臣秀吉配下の有力大名が、関東の徳川家康に対抗するため、重要な戦略拠点としてこの地に築城をはじめた。建設は豊臣系の有力大名によって引き継がれ、慶長5年(1600)頃、完成したと思われる。その後、柳沢吉保の時代に大増築を実施したが、亨保12年(1727)の火災でほとんど消失してしまい、それ以後、往時の姿を取り戻すことなく、今日に至っている。

要害城跡

永正16年(1519)に居館を石和から躑躅ケ崎の地に移した武田信虎は、翌年、詰の城として館の北方の丸山に要害山城を築いた。平時の生活と政務は館でとり、一朝事あるときは要害山城へ篭もるという戦闘用の城であった。大永元年(1521)9月、駿河の今川の将、福島正成が一万五千の兵を率いて甲斐へ侵入、油川氏の居城だった勝山城を襲撃し、ここを根城に国内を暴れ回った。背水の陣をしく信虎方は死にもの狂いで戦い、かろうじて今川勢を押し返した。このとき、信虎の妻大井夫人は出産をまぢかに控えており、戦の難をさけて要害山城に入った。戦乱のさなから誕生した戦の申し子が、後の武田信玄である。山頂の本丸跡には、「武田信玄公誕生の地」と刻む石碑が建つ。実戦を知らない山城は、武田氏滅亡後の今も山城の遺構をとどめている。要害山は国指定史跡。

武田氏館跡

武田信虎が永正16年(1519)に築き、天正9年(1581)まで信虎、信玄、勝頼がその本拠としたもので、東西284m、南北193mの内郭に土塁・堀をめぐらしている。内郭は東、中、西の曲輪に分かれ、これに北曲輪、南に梅翁曲輪がついたものであった。城というよりも代表的な居館であり、武田氏の盛時、信玄はここで8ケ国にまたがる政治・軍事の主導権を握った。いまは、土塁・堀・石垣などが残され、当時の本丸付近に武田神社がある。◎武田信虎(1494-1574)石和生れ。戦国の甲斐の守護大名。国内を平定し武田家飛躍の基礎を築く。天文10年長男の晴信に追われて駿河に隠棲。のち京都にのぼり伊那高遠城で死去。◎武田信玄(1521-73)甲府生れ。戦国時代の大名。近隣8カ国にまたがる甲斐合衆国を形成。天下に号令しようとして、大軍をひきいて上洛の途についたが、途中で病死した。

昇仙峡ロープウエイパノラマ台

営業:4月〜11月9:00〜17:30 営業:12月〜3月9:00〜16:30 休業:年中無休

甲府盆地を眼下に富士山,南アルプス,金峰山など360度の大展望。

昇仙峡のみつばツツジ

渓谷の川沿などに濃いピンクの花が新緑にはえて神秘的。

旅行情報