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平井晩村落葉詩碑

明治17年、前橋市本町生まれ、小説家、民謡詩人として多彩な文才をふるい新風をまきおこした。碑には詩集『野葡萄』の中の「落葉」が刻まれている。「落葉掻くまで大人(おとな)びしいたいけな子に母はなく父は庄屋へ米搗きに留守は隣へことづけて連(つれ)もなければ只ひとり裏の林で日を暮らす」。大正8年没した。

虎姫観音堂

遠い昔、厩橋城主にまつわるお虎のおん霊によって次々と水災を招いたという悲しい伝説がある。このため、河川の神、弁財天とともに虎姫を観世音にまつって堂が建立された。身の丈150cmほどのお虎観音は化粧がほどこされた様な色付の美しい観音像で、どことなくかわいらしいヘビの像とともにまつられている。自分や他人の嫉妬心に苦しむ方は静かな気持ちでお虎様をお参りしてはどうだろう。

萩原朔太郎帰郷詩碑

萩原朔太郎は、明治19年、前橋市に生まれた詩人。近代詩の成熟期にあって、これまでの観念的・形式主義的な詩風にさからって、感情にもとづく清新な抒情詩風を育てようとした。昭和17年に没したが、13回忌に、敷島公園の松林の中に詩碑が建てられた。「わが故郷に帰れる日汽車は烈風の中を突き行けり。ひとり車窓に目醒むれば汽笛は闇に吠え叫び火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。まだ上州の山は見えずや。」。「帰郷」の冒頭である。

萩原恭次郎詩碑

明治32年、前橋市日輪寺町生まれ。詩集『死形宣告』で近代詩の形式に革命をもたらし、たえず前衛芸術運動の先頭に立つ。昭和13年に没した。34年に建てられた詩碑は「汝は山河と共に生くべし汝の名は山岳に刻むべし流水に画くべし」。

高橋元吉詩碑

明治26年前橋生まれ。萩原朔太郎と交友を深め相互に影響を与える。白樺派とも交友。生家の煥乎堂書店を経営しながら、詩を書き続けた。昭和40年没。41年に建てられた詩碑は「ああ空遠くながれ去る河のごときものあり水をかすめつつ飛びゆく鳥のごときものあり」。

山村暮鳥ふるさと詩碑

明治17年、高崎市棟高町生まれの詩人。岩野泡鳴らの雑誌「白百合」に短歌を発表したのち、明治43年、自由詩社に参加、長詩を書いた。最初は前衛的な詩風であったが、のち人道的・牧歌的な色彩の詩風に変わった。詩集『三人の処女』『聖三稜玻瑠』で詩壇に登場。詩碑は詩集『雲』から『淙々として天の川がながれてゐるすつかり秋だとほくとほく豆粒のやうなふるさとだのう』。大正13年に没した。

お艶が岩(お艶観音像)

お艶が岩には数々のいつわが残っている。このお艶は淀君だという伝説もある。市営のボート場南の池、静まりかえった池の中にポツンと赤みを帯びた岩があります。これが”お艶が岩”です。「その昔、お艶という美しい娘が、利根川の対岸に住む青年に恋をした。はじめは川を越えて会いに来ていた青年だが、次第に熱が冷めてついには姿を現さなくなってしまった。お艶はこれを悲しみ、この岩から恋人の名前を呼びつつ身を投げたのだという」

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