全日本の観光地へ
1267年(文永4年)に建立されたもので、当時この地にあった延萬寺の境内物であったといわれる。延萬寺は天正年間の島津氏侵攻により焼失したと伝えられるが、現在の小字名に「馬場」という名前が残っていることからも、相当の境内地であったことが推定される。塔の基礎は壇上積式で、四面には大型の格狭間(こうざま)が刻まれ、薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩が陽刻されています。
とんち話で知られた吉四六さん(広田吉右衛門の通称)の墓と伝えられる。寛永5年(1628〜1715年)その後7代続く苗字帯刀を許された、弁指(小庄屋)であり、住居は現、臼杵市役所野津庁舎の南西側にあったといわれている。
昔、修験者の修業の場所であったといわれている。古くから大漁の地蔵尊として、漁民の信仰は深い。
陸地の自生ビロウ樹としては日本の北限といわれている。
観音崎沖の細長い岩礁島である横島は無人島。島の周辺は数十mの断崖絶壁で、ハマヒサカキ・シャリンバイの中に、ビャクシンの自生地がある。
近年浜の海水浴場として注目を集めている。砂丘地帯には数千本のハマユウが自生し、7〜8月にかけて白い花をつける。村ではハマユウ公園として保護している。
全島がタブ、シイ、アオキ、マテバシイ、トベラ、ヤブニッケイ、ヒゼンマユミなどの原生林におおわれていて、県の天然記念物に指定されている。頂上付近には10数本のビロウ樹が自生しており、全国的にめずらしいカワウ、オオミズナギドリの繁殖地として有名。
米水津湾の南の岬の突端で、沖黒島を望む。
明治の文豪、国木田独歩も愛した元越山。独歩は佐伯に滞在していた間に元越山に2度登り、『元越山に登る記』にその眺望のすばらしさを記しました。頂上からの眺めは、遠く四国の山々・豊後水道・鶴御崎半島から由布・祖母・傾・久住・阿蘇まで、360度の眺望を楽しめます。「展望の良い山全国選抜12(山と渓谷社刊)」にも選抜されたことからも、その眺望の良さがわかります。