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武者小路実篤実篤が、晩年の20年間を過ごした邸宅(現:実篤公園)の隣接地に昭和60年10月に開館しました。実篤の本、絵や書、原稿や手紙、実篤が集めていた美術品などを所蔵し、展示しています。
新選組局長の近藤勇は、天保5年(1834)多摩郡上石原村辻の宮川久次郎の三男として生まれました。宮川家の屋敷は戦時中に取り壊され、現在は屋敷の東南隅に勇の産湯に使ったといわれる井戸が残るのみですが、生家跡を市史跡として保存しています。
武者小路実篤が晩年の20年を過ごした邸宅の敷地を公園として公開。武蔵野の自然が残る園内には、清水が湧き、花々が季節を彩り、野鳥が訪れます。土・日・祝日の11時〜15時には実篤邸内も公開しています。
もと八雲台小北裏にあった第六天社と現在地にあった神明社を合祀して、新社殿を造営し遷座しました。境内の大木の藤は樹齢約400〜500年といわれ、毎年4月中旬から5月上旬にかけて華麗な花を咲かせる「ちょうふ八景」のひとつで、千年乃藤といわれています。
豊かな緑と湧き水に恵まれ、武蔵野の風情を色濃く残す一角に立つ深大寺は、天台宗別格本山の寺院で、都内では浅草寺に次ぐ古刹です。その起源は奈良時代、満功上人によって創建されたといわれ、白鳳仏(釈迦如来倚像、国の重要文化財)、梵鐘(重要文化財)などの貴重な寺宝で知られています。1年を通じて深大寺には多くの参拝者が訪れますが、特に大晦日とお正月、節分、毎年3月3日・4日に境内で開かれるだるま市や秋のそば祭りなどのイベント時には、大勢の人でにぎわいます。
延長5年(927)に制定された「延喜式」にその名を連ねる、多摩地方有数の古社で、社伝によれば第11代垂仁天皇の御代約1940年前の創建といわれています。少彦名命と菅原道真を祭神としており、神社の本殿や太閤秀吉の制札、狛犬は市の指定文化財になっています。毎月25日にある例祭では神楽の奉納が行われ、参道には市が立ち並び、天神の市として親しまれています。
深大寺の満功上人によって天平年間(729〜49)に開山されたといわれる古い寺です。明治41年(1908)には自由民権運動家の慰霊祭が当寺で行われ、板垣退助により植えられたという「自由の松」があります。
深大寺城は3つの郭が直線状に配置された連郭式の構造の城郭で、河越城主扇谷上杉朝定が北条氏綱の侵攻に備えて再興した城だと考えられています。現在も空堀・土塁・櫓台などの遺構が残ります。
シンメトリックに設計された沈床式庭園に植えれたバラ(春バラは409品種5,200余本、秋バラは約300品種5,000余本)の花期は年2回。春は5月下旬の頃が盛りで、秋は10月中旬からです。秋の花は小ぶりですが、色彩が鮮明です。
江戸時代の深大寺村の総鎮守である青渭神社の境内には、大きなケヤキの古木があります。高さは約34メートル、目通り(目の高さ)の幹の太さは約5.5メートルです。文政11(1828)年成立の『新編武蔵風土記稿』、翌年成立の『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』に、このケヤキのことが記されています。幕末の慶応元(1865)年に、深大寺が火災にあい、青渭神社も類焼しましたが、このケヤキは残り、今もなお樹勢はさかんです。