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天明の大飢饉の頃、山城国伏見奉行小堀政方は幾多の悪政を重ねた。このため文珠九助、丸屋九兵衛及び麹屋伝兵衛らは直訴を企てひそかに江戸に入ったが、伝兵衛は小堀が放った捕吏に殺された。ようやく逃れた九助と九兵衛は直訴に成功して小堀は罷免されたが、両人は天明8年(1788年)獄死した。
かつては桜と牡丹の名所。現在は深川公園となり,由来を記した石標柱がある。
水戸光圀が命名した臥竜梅の由来を記した石の標柱(亀戸3-51)あり
芭蕉の弟子鯉屋杉山杉風の別邸,芭蕉「奥の細道」の出発点。由来を刻んだ碑及び芭蕉旅立ちの像あり。
本所横網町の材木蔵をここに移し,幕府の用材を貯木した。住吉2-28猿江公園に石標あり。
安政2年に,幕府はこのあたり一帯を,軍隊の調練場とした。その後明治8年越中島町全域が陸軍用地となり,練兵場として使用された。
明治期旭焼(白い陶器に釉薬をかけ絵付をする技法)が作られた
銚子方面で大量にとれた鰯を干しあげ,江戸に送り,干鰮場で荷揚げ集散をした。別名銚子場。
幕府はここに船番所を設置して,江戸へ出入する船舶を取締った。のちに中川口へ移転。
開基松雲が等身大の五百羅漢像を安置有名となる。いまは由来を記した石の標柱と説明板(大島4-5)のみ。