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鉄舟は17歳まで飛騨で育ち、後江戸に来て文武百般に通暁し無刀流を開いた。幕末の動乱の中、幕府方の恭順が京都方に理解されないことを憂いて、西郷隆盛と逢い、将軍慶喜や勝海舟の意向を伝え、西郷・勝会談の下地を作った。
幸田露伴の『五重塔』で知られたこの塔は、戦後に焼失し、現在は礎石を残すのみである。棟札なども焼失したが、その写真や記録は残っており、天王寺の前身である感応寺五重塔として設立されたものの、明和9年(1772年)に焼失し、寛政3年に再建完成したという。
尾張の茶人牧野作兵衛が、京都表千家の茶室“不審庵”を模倣して建築。都内最古の茶室。都指定有形文化財。
不忍池北側,江戸千家家元川上宗雪氏邸内にある。江戸千家の祖川上不白が,外神田の関宿藩主久世大和守下屋敷内に建てた茶室で,1869(明治2)年に移築。三畳台目席といわれる建て方は,建築技術上貴重なものである。
約20,000株が花開く。
竹久夢二の作品を収集・展示
明治17年、東京大学の有坂しょう蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見した。これが後に縄文式土器と異なるものと認められ、発見地の地名を取り弥生式土器と名付けられた。しかし、最初の発見地についてははっきりせず、近年まで3説があったが、昭和49年の東大浅野キャンパス内の発掘により、この地(従来の3説の地とは異なる)が最有力とされている。現在弥生式土器発掘ゆかりの地の碑がある