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知覧町中部地区には、ユーモラスな風習「かせだうち(良く稼いだ家という意)」が残る。1月14日の晩、前年に新築した家を良く稼いだ家として、神様の扮装をした大工や左官が祝福に訪れる。
石組みの1つもない全部がサツキで覆われた南国では非常に珍しい『大刈込み式』の庭園である。『台形の切石』10個に盆栽等を乗せて観賞したり和歌を詠んだりしていた。イヌマキによる延々たる遠山は、その中に三つの高い峯を見せ、前面にはサツキの大刈込みが築山のようで、母ヶ岳を庭園に取り入れて極端に簡素化された借景園として、名園の名をほしいままにしている。
庭の南東部の隅に枯滝の石組みを設けて高い峯とし、この峯から低く高く刈り込まれたイヌマキは遠くの連山を表現している。また『鶴亀の庭園』ともいわれ、一変して高い石組みは鶴となり、亀は大海にそそぐ谷川の水辺に遊ぶがごとく配され、石とさつきの組み合わせは至妙である。
知覧の武家屋敷庭園群の中で『最も豪華で広い庭園』で,寛延4年(1,751年)に作られたものといわれている。枯滝を造り、築山の上部に石灯、下部の平地には、各所に巨岩による石組みを設けている。門を入って右に折れて書院の前に出ると、本庭の主力の滝を中心とした石組みは、えんえんと流れ、訪れた人々に力強さと広さを感じさせる。
ここでは,石組み及び庭園の地割構成が最も技術的にも感覚的にも力強さを感じられる巨石奇岩を積み重ねて深山幽谷の景を写しだし、小舟に乗って石橋の下を潜って行くと、仙人が岩の上から手招きしているようである。麓川の上流から運んだ庭石は、凝灰岩質のもので、巨岩のため石目にそって割り、牛馬で運びやすくしたものである。
森家は、亀甲城の西麓にあり、領主に重臣として仕えた格式高い家柄で、住居や土蔵は寛保初年(1,741年)に建てられたものである。曲線に富んだ池には、奇岩怪石を用いて近景の山や半島をあらわし、対岸には、洞窟を表現した穴石を用いて水の流動を象徴している庭園群唯一の『池泉庭園』である。庭園入口の右側にある石は、庭園の要をなし、雲の上の遠山を現している。
母ヶ岳の優雅な姿をとり入れた『借景園』見所である。無人島が浮び遠くには緑の大陸が望まれ,『大海原』をイメージさせる庭園は,想像とロマンの世界を楽しめる。北側の隅には石組みを設けて主峯となし、イヌマキの生垣は母ヶ岳の分脈をかたどっている。また、どこを切り取っても一つの庭園を形づくり、調和と表現に優れた庭園として絶賛されている。
門をくぐると切石を目隠しにつき当たる壁を『屏風岩』と呼び,防衛を兼ねた造りで江戸時代中期の武家屋敷の風格を備えている。母ケ岳を望む庭の一隅に築山を設けて、その中心部に3.5mの立石がそびえ、下部には、多数の石組みを配して枯滝としている。何か大陸的で一幅の水墨画をそのままに現した名園である。
県道沿いに580mの清流溝を通し、鯉2,000匹が遊泳。武家屋敷群と調和のとれた町並。
約260年余り前、知覧領主(18代)島津久峰時代の武士小路区割の名残りで、武家屋敷通りと屋敷庭園が保存されている風致地区。各屋敷が塁のように防衛障壁となるよう工夫されている。知覧の庭の大部分は枯山水だが、森邸庭園だけは池泉式。武家屋敷群は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、庭園は国の名勝に指定されている。