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石垣山

天正18年(1590)、秀吉が突貫工事で築かせた城で「太閤の一夜城」と呼ばれた。小田原城西方約3km、海抜261.1mの石垣山(笠懸山)の山頂にある。北条氏滅亡後、徳川麾下の大久保氏の管轄下、箱根を押さえる要害とした。「野面積み」で築かれた石垣も大半は崩れ去っているが、当時の構築技術を偲ぶことができるところも残っている。

石橋山古戦場

営業:年中無休

源頼朝が平家方の武将大庭景親に敗れた古戦場。

小田原城

公開:9:00〜17:00入場は16:30まで、6月〜8月土日祝は1時間延長 休館日:2010年12月9日、31日、2011年1月1日

室町時代、西相模に進出した大森氏が築いた山城が前身。これを早雲が攻め取ってのち、北条氏の居城として関東に君臨した。徳川氏の関東入国とともに功臣大久保忠世が領有し、その子忠隣は改易、72年目にまた大久保忠朝に復した。その間、稲葉氏(稲葉正勝・正則)が近世城郭として整備、度々の震災で復興・改修を重ねた。現在は天守閣が昭和35年、常盤木門が昭和46年に復興、銅門が平成9年に復元。ほかに隅櫓などが復興されている。◎北条早雲(1432-1519)戦国大名。北条氏の祖。今川氏に仕え、伊豆を奪い自立。のち小田原に進出し、伊豆・相模を支配。後北条五代の基礎をつくった。◎北条氏綱(1487-1541)戦国大名。北条早雲の子。北条に改姓し、鶴岡八幡宮を再営、虎の印判を用い、新たな領国支配体制を整え、武蔵南部に勢力をのばした。小田原を居城とし、小田原の繁栄に尽くした。◎北条氏康(1515-71)戦国大名。北条氏綱の長男。関東管領上杉憲政を越後に敗走させ、武田・今川氏と外戚関係を作り上杉謙信に対抗。税制の改革や伝馬制の確立など民政にも優れた。◎北条氏政(1541-90)戦国大名。北条氏康の二男。武田信玄・上杉謙信らと抗争・和平をくり返しながら勢力拡大に努力。のち豊臣秀吉と対抗、小田原合戦に敗れ弟氏照とともに自害。◎北条氏直(1562-91)戦国大名。北条氏政の二男。隠居した氏政の家督を継ぎ、織田信長の部将、滝川一益を関東から駆逐、徳川家康と和睦するが、豊臣秀吉に敗れ高野山に追放。後に赦免され、1万石を与えられるが、大坂で病没。◎大久保忠真(1781-1837)江戸後期の大名(小田原藩主)。文政元年からその死まで老中をつとめ、また藩政では倹約令を出したり、学問所「集成館」を創設し人材養成に努めた。

長興山のしだれ桜

長興山にはシダレザクラの名木がある。340年以上前、小田原城主だった稲葉氏が菩提寺の紹太寺を建立したさいに植えたものと伝えられている。高さ13m・目通りの幹回り3.8m・根元周囲4.7mの巨木で、神奈川県下随一の名木といわれている。

沼代桜の馬場

この地の豪族中村氏が白髭明神に相撲を、五所八幡宮と沼代の鎮守王子神社に競馬を奉納したのが始まり。桜並木は村人が神に桜花を奉納するために植樹したものである。70本の桜が一斉に咲き競うさまは見事である。

曽我梅林

見わたす限りに広がる約3万5千本の白梅の上に富士の姿が浮ぶ。

御感の藤

大正天皇が皇太子時代にその美しさに感嘆されたことからこの名がついた。樹齢は約180年で花つきのよいことと花房の長いことで知られ、市の天然記念物に指定されている名木である。全部で3株・10メートルの間をおいて植えられているフジは大きく枝を広げ東西33m・南北15m・面積500平方m近いフジ棚をうめつくしている。

小田原城址公園の桜

復興された天守閣を中心に動物園や遊園地もあり、市民の憩いの場。桜まつりは恒例でソメイヨシノは700本

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