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開基百年記念塔

開館:4月29日〜5月31日9:00〜17:00 開館:6月1日〜9月30日9:00〜21:00 休館:毎週月曜日休館、4/29〜5/31、10/1〜10/31、6/1〜9/30は無休

稚内公園の丘陵、海抜170mの位置にあり、地上80mの高さをもつ鉄筋コンクリート中空型の塔。北方記念館と展望室がある。北方記念館には、1階・2階にわたり、貴重な資料が展示されており、特に2階の樺太関係考古資料は全国一の折り紙がつけられている。展望台からの見晴らしは海抜240mの上空から望むこととなり、南は広大なサロベツ原野、東は茫洋たるオホーツク海、西は利尻・礼文島そして北には、サハリン島の島影を望むことができる。

日本最北端の地の碑

日本最北端の地の碑は、北緯45度31分22秒、宗谷岬の突端に位置し、まさに日本のてっぺんに建てられています。碑は、北国のシンボル北極星の一稜をかたどった三角錐をデザインしたもので、塔の中央にあるNの文字は「北」を、そして台座の円形は「平和と協調」を表しています。国道238号線の拡幅とバスレーン・歩道の新設により、駐車場やはまなす花壇などが整備され、観光客の絶好の記念撮影ポイントとなっています。

南極観測樺太犬訓練記念碑

昭和32年、国際地球観測年を機に、日本が初めて南極観測に参加するにあたって、極地での物資輸送を目的に”犬ぞり隊”が編成されました。この”犬ぞり隊”の主役が、稚内周辺から集められた樺太犬たちです南極へ出発する前に、”犬ぞり隊”は稚内公園で8ヶ月間、厳しい訓練を受け、その中から選び抜かれた22頭の樺太犬は、南極観測船『宗谷』で白い大陸に渡り、任務をまっとうしました。しかし、南極の悪天候を克服できず、樺太犬15頭が現地に置き去りにされて死ぬという悲劇を被りました。そして、昭和34年1月、第3次越冬隊がタロ・ジロの奇跡的な生存を確認し、当時世界の人々を感動させたことは今日でもよく知られています。稚内市は、樺太犬の功績を讃え、『南極観測樺太犬訓練記念碑』を制作しました記念碑はブロンズ像で、台座には南極で採取した白石が埋め込まれています。除幕式には、樺太犬を南極に置き去りにした隊員への非難と、タロ・ジロの奇跡の生還の歓喜がうずまく中で、昭和35年7月、関係者多数の出席のもと、とり行われました。

間宮林蔵渡樺出港の地

宗谷岬から西へ3kmの第二清浜地区にある。文化5年(1808)4月13日、幕府から樺太探検の命を受け、樺太探険に出航した地。この時、林蔵は生きて再び日本の土を踏めないと覚悟し、郷里から持ってきた自分の墓石(花崗岩でできた墓石)を海岸に建て、探検への決意のほどを示して旅立ったといわれている。後年この地で宗谷アイヌが林蔵祭を行った。

九人の乙女の碑

昭和20年(1945)8月20日、終戦5日後に、樺太真岡郵便局で電話交換業務を終えた後、自ら若い命を絶った9人の女性の霊を慰めるために建てられた、高さ1.8m、幅2.4mの登別石で造られた屏風状の碑。この碑は、彫刻家・(故)本郷新氏と樺太引揚者で札幌在住の上田祐子さんの寄進により造られたもの。北方記念館(開基百年記念塔)には、関係資料が展示されている。昭和20年(1945年)8月20日、終戦5日後に、樺太真岡郵便局で電話交換業務を終えた後、自ら若い命を絶った9人の女性の霊を慰めるために建てられた殉職した九人の乙女高石ミキ(24)可香谷シゲ(23)吉田八重子(21)志賀晴代(22)渡辺照(17)高城淑子(19)松橋みどり(17)伊藤千枝(22)沢田キミ(18)碑文戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……』の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む

祈りの塔

昭和58年9月1日未明、世界を震撼させた”大韓航空機撃墜事件”が眼前のサハリン西海域で起きました「祈りの塔」は2周忌にあたる昭和60年9月1日に、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願い、遺族会の資金と、稚内市をはじめとする全国からの浄財をもとに、サハリンを臨む宗谷岬の高台に建立されたものです塔の周辺には地域の婦人部が世界平和の願いを込めて追い丹誠込めて植栽しているアルメリア花壇があります碑文愛と誓いを捧げるあなたたちの生きる喜びを一瞬のうちに奪いさったものたちは、いま全世界の人々から糾弾されています。事件の真相はかならず近い将来にあきらかにされるでしょうわたしたちはあなたたちの犠牲を決して無駄にはさせませんわたしたちは生命の尊さと武力のおろかさをひろく世界の人々に訴えていくことを誓います愛しい人たちよ安らかにお眠りください1985年9月1日建立日本大韓航空機事故遺族会

稚内公園

市の背後にある丘全体が公園になっており、ここには太平洋戦争で樺太に散った同胞の霊を慰めるために建てられた“氷雪の門”と終戦時にソ連軍が進撃の際、真岡郵便局にあって交換台を死守した9人の交換手の霊を慰める“九人の乙女”の碑がある。

恵山泊漁港公園

ノシャップ寒流水族館の西側に、平成8年漁業活動の能率アップと観光客との交流をめざして設置された海浜公園。この地は、稚内西海岸に面し、利尻・礼文の島影と、日本海に沈む夕日が市民や観光客に人気のスポット。

宗谷岬公園

日本最北端の地、「祈りの塔」、「あけぼの像」等を含める周辺一帯。異国サハリンを遠望できる。また、宗谷漁業協同組合の婦人部の皆さんが宗谷岬公園に植栽したのがはじまりで、毎年、夏には美しいピンクの花(アルメリア)が公園を埋め尽くす。

宗谷護国寺

元禄以来、徳川幕府は新しい寺院の建立を禁じましたが、享和2年(1802年)蝦夷地(北海道)に5つだけ寺を建立することを許可し、北方警備のためこの地に秋田の藩士たちが駐屯することになったおり、蝦夷地に先に建立されていた有珠善光寺の住職が、安政3年(1856年)に宗谷場所の協力を得て建立した幕府直轄の浄土宗のお寺でした明治の半ば頃までは、西は利尻、礼文、増毛、東は網走まで遠くは樺太までにも死者供養のため寺僧が巡回していた北蝦夷地の唯一の寺で、その後、明治45年(1912年)に一度焼失し、現在の「宗谷護国寺」は位置を変え、昭和25年(1950年)に再建されたものです焼跡は、昭和32年(1957年)に北海道文化財に指定されています

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