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朝島観光りんご園

営業:9月中旬〜11月中旬

化学肥料を適度に抑え、着色をよくするための菜摘みは必要最小限にとどめ、着果数も少なくしているので、りんごの大きさはそれほどではないが、果汁が多く日持ちのよいリンゴが特徴。りんごの木のオーナー制度もあります。

マルシロ農園

営業:9月中旬〜11月下旬

盛岡市都南つどいの森

営業:春夏秋冬8:30〜17:00通年 休園:火年末年始休。※キャンプ期間中4/1〜12/1及びGW期間中は休園なし その他:キャンプ場は利用施設によって利用時間が異なります。お問い合

都南つどいの森は,盛岡市の南西部に位置し自然の魅力を体感できる施設です。森林公園としてはもちろん,キャンプ場,テニスコート,バーべキューハウス,木工体験施設等があり,ファミリーレジャーに最適です。つつじさくらまた,つどいの森は市街近郊随一の野鳥の宝庫として広く親しまれており,アカゲラをはじめオオタカなど今では見ることの少なくなった鳥たちの美しい姿を楽しむことができます。

盛岡ハイランドカントリークラブ

定休日:休日無休(12月中旬から2月下旬まで冬期はクローズ)

盛岡カントリークラブ

定休日:休日無休(12月下旬から3月上旬まで冬期間クローズ)

貞女おかんの墓

女おかんの墓で知られる大泉寺(だいせんじ)は、江戸時代の文政年間に再建された独特の宝形式反り屋根の本堂になっています。宝形造りの屋根は、宝珠と軒の反りの線が流れる美しさが特徴です。反り返る軒先には力強さがぐんあふれ、みごとな空間構成をつくり出しています。昭和54年盛岡市の保存建築物に指定されました。※貞女おかんの伝説※慶長年間の不来方城(こずかたじょう)築城のころのことです。工事人夫の三平には、おかんという美しい妻がいました。棟梁の高瀬軍太は、かねてからおかんに横恋慕していて、三平を亡き者にしようとたくらんでいました。それを知ったおかんは悩み、「夫の三平を、明日の朝早く馬で観音参りに出すので、鉄砲で撃ち殺してほしい」と高瀬に頼みました。あくる日、高瀬は三平を手はず通り撃ちました。しかし、そこに倒れていたのは三平に変装したおかんの変わり果てた姿でした。罪の深さを知った高瀬は、大泉寺におかんを葬り、三平とともに僧侶となって供養しました。

横川省三の墓

横川省三は1865(元治2)年4月4日、盛岡下小路(現:盛岡市愛宕町)にて盛岡藩士三田村勝衛、クニの次男として生まれた。1884(明治17)年に東和賀郡十二鏑村(じゅうにかぶらむら((現:花巻市東和町)の横川佳哉と結婚したのちも、山田勇治、横川勇治といくつかの名を名乗るが、1901(明治34)年に横川省三と改名した。横川の生涯をたどると、敗戦を余儀なくされた盛岡藩士たちの明治という時代に対する衝動が感じられる。盛岡の求我社で自由民権運動に共鳴した横川は、結婚した年の7月に上京、運動家が屯(たむろ(する「有一館」に出入りする。そこで知り合った小林篤太郎をらが起こした加山(かばさん(事件のため、1年8ヶ月間投獄された。このため下獄の際には弱冠22歳であった横川も政府に危険人物とみなされ、1887(明治20)年12月、保安条例により伊東圭介とともに皇居三里以内から追放された。ちなみにその範囲には東京23区のほとんどが含まれる。その後、郷里で自由民権運動家として活躍、再び上京したのちには新聞記者、北米での農業経営、ハワイ移民斡旋業などの職を手がけたが、1901(明治34)年、清国公使内田康哉(うちだこうさい(の求めに応じ中国へ向かった。そこで日露戦争における特別任務班第六班班長となり、1904(明治37)年4月21日、満州ハルピンにて処刑された。横川は獄中で読んだ『荘子』に、“日に三度己を省みる”の言葉を見つけた。その時に自身も反省が必要だと痛感、のちに省三と改名するにいたる。

石造地蔵菩薩坐像

愛称四ツ谷地蔵。南部藩主第三十代行信公が300年余前(1694)に建立した。安産、家内繁栄のお地蔵さんとして参詣者が絶えない。

楢山佐渡の墓

楢山佐渡(ならやまさど)(本名隆至(たかし)、もしくは隆吉)は楢山帯刀(たてわき)(隆冀(たかくに))の長男として生まれた。楢山家は南部一門として代々家老を勤めた家柄で、佐渡も弱冠23歳にして家老職に就き、後には主席家老として藩政の改革に奔走した。佐渡は疲弊した藩財政と相次ぐ一揆をおさめるために働き、そんな佐渡を藩主利剛(としひさ)も厚く信頼した。1868(慶応4)年2月、旧幕府側と薩長側に揺れる藩の行く末を決めるべく、佐渡は主席家老として京都へ赴く。しかしそこで佐渡が見たものは、権勢を得て横暴な態度をとる薩長の武士の姿だった。そのため佐渡は、薩長の標的とされた会津藩と庄内藩への穏便な処置を望んだ奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)への参加を決意する。奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に従った盛岡藩は、同盟を脱退した秋田藩を攻めるも官軍の援助を得た秋田勢に敗れ、同年9月に降伏謝罪の手続をする。主席家老として佐渡はその戦争の責任を一身に受ける形となり、翌年の1869(明治2)年6月23日、故郷盛岡にて切腹の形をもって処刑された。

愛染明王像

見学時間:4月〜10月9:00〜19:00 見学時間:11月〜3月9:00〜18:00 休館日:毎月第3火曜日(祝・休日の場合は翌日)12月31日〜1月1日

寄木造りの木彫りの像。彩色されていたが、脱色し全体に黒っぽくなり歴史の年輪を感じる。昭和41年に盛岡市指定文化財になっており、現在はもりおか歴史文化館に収蔵されている。

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