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南部利直の墓

信直の嫡子。豊臣氏滅亡後の混乱のなかで南部氏所領を守り,城下町盛岡の街作りを推進。南部家と東禅寺との関係は十三代守行公より始まり、二十七代利直公の焼香師と勤めた。利直公のほか、三十一代信恩公、三十五代利正公、三十七代利用公、三十九代利義公ほか一族の墓が多数ある。

栗山大膳の墓

筑前福岡藩主筆頭家老。黒田騒動の後、1663年南部藩にお預けとなった。この恩流寺は、大膳については黒田騒動の史実では有名ではあるが、京極丹波守、下田将監などの墓碑もあるが、なぜそれらが南部藩内にあるかは全く知られていない。また大膳の碑文は、南部藩お預けの身となっていた無方規伯が記したもので、栗山大膳の忠節を讃えたものである。

愛宕山記念公園

休業:年中無休

市街地に隣接する愛宕山に、平成5年皇太子殿下の御成婚記念として整備。市内を見渡す展望台は夜景スポットとしても有名で、そこを中心としたメイン広場には妃殿下雅子様ゆかりの「ハマナス」三輪が描かれている。また公園内の自然散策路沿いには、盛岡ゆかりの歌人、立原道造、武島繁太郎の歌碑が並ぶ。

東禅寺

建武年中に遠野市附馬牛で無盡妙什和尚が開山したといわれる古い寺だが、寛永12年南部重直公が盛岡城が完成し移城と同時に藩公の命により遠野から移ったと言われている。境内には五基の歴代南部藩主の墓をはじめ多数の藩士の墓があり、また、天明飢餓餓死の千人塚や、宝暦供養塔、蜂蜜の供養塔もある。

永泉寺

左甚五郎の作と伝えられている木像七福神はじめ多くの文化財を有する。※滝ノ上観音縁起:旧中野村に白滝という場所があり、最近まで幅2メートル、高さ数メートルの滝があった。昔ここに観音様が祀られていた。あるとき、付近に山火事が発生し危うく類焼しそうになった。観音様は自ら難を逃れて永泉寺に飛んでこられたと伝えられる。それ以来、当寺に祀られ、滝ノ上観音と崇められ盛岡三十三番札所の七番として信仰を集めている。

久昌寺

寺のシンボルである山門は、総ケヤキ造り。昭和8年の落成で屋根を支える垂木が放射状に伸び見事な反りを描く「扇垂木造り」が特色。山門の周囲には獅子頭、昇り竜など数々の彫刻がはめ込まれ、1つひとつにいわれがあるという。なお、本堂前にあるシダレカツラは、盛岡市大ヶ生の瀧源寺にある天然記念物シダレカツラより分かれたものといわれている。

永祥院

境内に、清水観世音をまつる観音堂や、酒買地蔵の伝説などで有名な酒買地蔵堂がある。※酒買地蔵伝説※昔、材木町のある酒屋に毎晩酒を買いにくる物言わぬ小僧がおりました。ある晩のこと、貸した小樽を返さぬことに腹を立てた番頭は、小僧の頭を木槌でなぐってしまいました。けれども、帰って行く小僧の身を案じた酒屋の主人は、そっとあとをつけました。ところが永祥院(えいしょういん)のお堂の前まで来ると、小僧の姿が見あたりません。不思議に思ってお堂の中をのぞいてみると、何と貸した小樽が山のようになっています。ふとお地蔵さんを見上げると、その眉間に傷がついているではありませんか。そのとき、酒屋の耳に「お客様には親切にしておあげなさい」と鈴のような声がきこえました。「もったいないことをした、毎晩このお地蔵様が化身されてお酒を買いに来られたのだ」と酒屋は心から悔やみました。その後、酒屋は親切第一に商売に励み、縁日にはお地蔵様にお酒を供えて商売繁盛の守り本尊としておまつりをしました。するとお店は大繁盛、健康と賢い子宝にも恵まれました。

大泉寺

貞女おかんの墓で知られる大泉寺(だいせんじ)。山門真正面に本堂独特の宝形式反り屋根の木造平屋建の寺院が見える。始め瓦葺だったが修理して現在の銅板一文字葺になったと言う。車寄せ屋根は起り(むくり)破風であるので垂木は一本曲がりものでできているが,本堂は反り屋根,車寄せは起り(むくり)破風で対照が面白い。車寄せの柱梁はけやきで柱脚は礎石に乗っている。梁は虹梁(こうりょう)で彫刻文様があり,蟇股,斗拱(ときょう)の組合せの造り方になっている。本堂は床高く,風通しよく考えられ,床束,柱,土台は御影石に据付けられている。本堂内部は外陣は板張りの床だったが,畳敷きになっている。天井は竿縁(杉)で,簡単なものである。外部建具は硝子戸になっているが,古くは紙貼り障子に雨戸であったと思われる。雨戸は現在はないが平鉄をはった戸溝が残っている。内陣は3.5間×2間で共に天井は格天井(ごうてんじょう)で折上(おりあげ)部は簡単である。内々陣の南面,北面の中柱2本づつはけやきの円柱がある。内々陣と内陣,その他隣室の長押欄間には見事な木彫の桃山風立体籠の彫刻がつけられている。裏側は板になっている。各内陣,内々陣その他隣室の長押梁には文様の木彫がされてある。須弥壇の勾欄には唐様で親柱に鎌倉時代から出現した逆蓮柱になっている。なお,車寄せの正面妻飾りが特徴があり懸魚(けんぎょ),母屋鼻かくし,蟇股等の木彫は興味を引くものである。※貞女おかんの伝説※慶長年間の不来方城(こずかたじょう)築城のころのことです。工事人夫の三平には、おかんという美しい妻がいました。棟梁の高瀬は、かねてからおかんに横恋慕していて、三平を亡き者にしようとたくらんでいました。それを知ったおかんは悩み、「夫の三平を、明日の朝早く馬で観音参りに出すので、鉄砲で撃ち殺してほしい」と高瀬に頼みました。あくる日、高瀬は三平を手はず通り撃ちました。しかし、そこに倒れていたのは三平に変装したおかんの変わり果てた姿でした。罪の深さを知った高瀬は、大泉寺におかんを葬り、三平とともに僧侶となって供養しました。

聖寿禅寺

南部家菩提寺であり、お亀地蔵、横川省三の墓があります。また盛岡市指定の重要文化財に指定されているマリア観音が所蔵されています。五重塔は1805年に南部藩主により当時5千両の大金で建立されたもので、江戸の谷中の五重塔を真似て作られたものであり古い盛岡城下図面にも描かれています。その五重塔の中にあるお亀地蔵は南部の殿様の側室であった亀姫の身代わり地蔵と伝えられていて子安地蔵尊・安産の地蔵として知られるようになりました。

榊山稲荷神社

盛岡の街づくりが始まった慶長2年に、榊山稲荷大明神を盛岡の守護神として城内に祀ったことから始まります。藩政時代は、藩主から一般庶民にいたるまで篤く信仰され、「もりおか開運神社」と称され崇められました。その後、明治維新の改革により廃社となったものを、昭和の初めに再興され今では社殿・社務所・参集殿はもとより、盛岡藩時代から由縁のある名勝庭園「緑風苑」を有し、境内は壮厳あふれる神域を醸し出しています。

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