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上野恩賜公園正面入口、石段を上った山王台広場に立つ西郷隆盛像は、1898年(明治31)に建立された。作者は、彫刻家高村光雲[たかむらこううん](詩人・高村光太郎の父)。草履ばき着流しの散歩姿で愛犬とともに立つ姿は、上野のシンボル的存在。
花川戸公園内の池が一ツ家伝説(石枕伝説)とかかわりの深い池跡である。旅人を泊め、石枕に寝ている旅人の頭の上に大石を落して殺し、金品を奪っていた老婆がその娘が旅人の身代りになって死んだため、罪の意識にめざめ、この池に身を投げたという。また、園内には市川団十郎が演じて喝采を博した「助六由縁江戸桜」の助六歌碑がある。
上野恩賜公園内の上野精養軒の入口脇に、寛文6年(1666)に設けられた鐘で、江戸の市民に時刻を知らせていた「時の鐘」です。当時、江戸市中には9カ所の時鐘があり、上野の時鐘は「花の雲鐘は上野か浅草か」と松尾芭蕉に詠まれたほど江戸市民に馴染み深いものでした。現在も朝夕6時と正午の3回、鳴り響く江戸の音です。
慶応4年(1868),大政奉還に際して官軍と戦った彰義隊戦士の墓。高さ約7.5mの大墓標で,碑名「戦士之墓」は山岡鉄舟の筆による。
台東・墨田両区の隅田公園を結ぶ歩行者専用橋でX型のユニークな形をしている。春には両岸に約1,000本の桜が美しく眺められる。両側のテラスには遊歩道・花壇・水草を植えた池があり、階段で水際まで降りることもできる。
江戸幕府第15代最後の将軍慶喜の墓所は,浄名院からさらに北西200mほどいった寛永寺谷中霊園内にある。
浅草寺境内南東隅の小高いところにある。梵鐘は江戸時代から時の鐘として知られ、芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」で有名である。1692年(元禄5年)の改鋳で、地金に黄金200枚が鋳込まれているといわれている。現在点鐘は毎朝6時と除夜の鐘だけ。
浅草寺境内の西,国際通りと並行した約400mの娯楽街。明治,大正,昭和にかけて,かつて浅草は東京の娯楽の中心であった。特に大正から昭和初期にかけて全盛を誇り,浅草オペラやレビュー,軽演劇の発祥地として藤原義江・田谷力三・榎本健一など多くの芸能人を輩出した。煉瓦造12階建の凌雲閣やひょうたん池のあったことで知られている。現在客足が激減したため近年六区再開発が進められ,その先駆けとして日本最初の常設映画館,電気館跡地に野外ステージを設け,洋風露店を並べた若者の広場「ロックスクエア」がある。
谷中の寺町の中にあって、寛永寺や天王寺の墓地が入り組んで一団の墓域を形成し、霊園内には、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルになった天王寺五重塔の跡もあります。霊園の北側はJRの線路に接する高台となり、スカイツリーを望むことが出来ます。園内は明るく静かで、著名な画家や文学者、俳優なども眠っています。開設は明治7年で、面積は約10ヘクタール。園路沿いにはたくさんのサクラが植えられています。特に、中央園路の桜並木は見事なものであり、墓参者の気持ちが和みます。