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童謡「からすの赤ちゃん」を作曲した海沼実は、児童合唱団「音羽ゆりかご会」の育成に尽力した。その音羽ゆりかご会が初めて呱々の声をあげた所が護国寺境内の一角で、「からすの赤ちゃん」の全曲楽譜が四段に刻まれた詩碑が立っている。
父を亡くした一葉は,母妹とともに本郷菊坂町・下谷竜泉寺町・この地西片(旧丸山福山町)のうなぎ屋守喜の離れへと転居した。生活貧窮の中にあって執筆しつづけ,2年後,結核のため24歳で死ぬまでに『にごりえ』『たけくらべ』など一葉文学の代表作を書いた。終焉の地碑は『塵日記』の一節で,平塚らいてう氏の筆である。
清武郷生れ。幕末維新期の儒学者。古注学を修め、飫肥藩校助教・昌平黌学長など務める。ペリー来航で『海防私議』を著し国防論を唱える。維新後著述に専念。朱子学を退け漢唐の古注疏を尊び学問の経世実学を主張。
幕府に洋式砲術の採用を建議し,1841年武州徳丸ケ原(現在の板橋区高島平)で,洋式訓練や実弾射撃を行い世人を驚かした。
五代将軍綱吉が聖堂を湯島に移したため,孔子の故郷、昔の中国魯の国、昌平卿にちなんで呼ばれた。
湯島天満宮の北側、春日通りのゆるやかな傾斜の坂。もとは細い急坂で、折れ曲った道であった。明治末年本郷3丁目交差点近くの喜之床という床屋に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰りに上った坂。「二晩おきに夜の一時頃に切通しの坂を上りしもー勤めなればかな。」
元東京教育大学(現筑波大学)が茨城県へ移転した跡地に造成された。なだらかな丘や坂道を利用し,明るく開放的な設計がなされている。自由広場を中心に,正門広場,ちびっこ広場,緑の森等が配されており,子ども達で賑わっている。
熊本藩主細川家の屋敷跡。神田川に面した目白台の傾斜地を利用し,台地を山にみたて,麓の低地に湧き水による池を配した,池泉回遊式の大庭園。
江戸時代、加賀前田藩の支藩大聖寺藩主松平備後守の屋敷であった。このあたりは江戸の郊外で、閑静で敷地も広く地形を立体的に巧みに構成して、遊歩道をめぐらした趣のある庭園を作った。当時の大名の趣味生活がうかがえる。
武蔵野の雑木林のイメージをもとに造られた和風庭園、そして一年中花の絶えないバラ園を中心とした開放的な西洋庭園の2つの庭園が隣接。