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播磨坂さくら並木

第二次大戦後の区画整理でできた「環状3号線」の一部として整備された。この地にあった松平播磨守の上屋敷にちなみ、播磨坂と名付けられた。昭和35年に坂の舗装が行われたが、当時の、花を植える運動の一つとして桜の木約150本が植えられ地元の人々の手で育てられ立派な桜並木に成長した。また、中央部は緑道として整備され、憩いの場となっている。

動坂遺跡

昭和49年、都立駒込病院の外溝工事中に貝塚が発見され、2次にわたる発掘調査が行われた結果、縄文時代の遺跡の上に江戸時代の遺構が発見された。縄文遺跡は、縄文中期のもので、住居跡と土器、特におもりが多く出土しこのあたりでの漁労の跡がしのばれる。また、江戸時代の遺跡は、8代将軍徳川吉宗が復活した鷹匠の屋敷跡であった。現在、動坂貝塚記念碑がある。

切支丹屋敷跡

島原の乱寛永14〜15年(1637〜1638)の5年後、イタリアの宣教師ペトロ・マルクエズら10人が筑前に漂着、すぐに江戸送りとなり伝馬町の牢に入れられた。その後、宗門改役の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建てて収容したのが切支丹屋敷の起こりである。寛政4年(1792)の宗門改役の廃止まで続いた。鎖国禁教政策の下で、宣教師や信者を収容した。宝永5年(1708)イタリアの宣教師ヨハン・シドッチが屋久島に渡来し、この切支丹屋敷に入れられた。徳川6代将軍家宣に仕えた新井白石はシドッチを尋問し、『西洋紀聞』にまとめられた。現在切支丹屋敷跡の記念碑がある。

かねやす

享保年間(1716〜1736)に、現在の本郷3丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出した。これが当たり店が繁盛していたという。享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のために土蔵造りの塗屋にすることを命じた。一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれた。

美幾女墓(念速寺)

美幾女は、駒込追分の彦四郎の娘で、10歳で本郷の旧家に奉公していたが父のけがで遊女になったといわれている。彼女は病死を予期し、自らの意志で死後解剖のために提供する特志解剖のすすめに応じ、父母・兄連署のうえ、東京府に提出した。その後、明治2年(1689)8月34歳で没した。わが国最初の病死体の解剖は、旧下谷和泉町の医学校の仮小屋で行われた。

樋口一葉旧居跡

小説家・歌人として明治期に活躍した樋口一葉(1872〜1896)の旧居跡。24年間の短い生涯のうち、約10年間現在の文京区内に住んだ。この地には、父の死後移り、母と妹を養いながらこの地の貸家で小説家として立つ決意をし、半井桃水の指導を受けながら、『闇桜』『たま襷』『別れ霜』『五月雨』などの小説を執筆した。『大つごもり』『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』など今も読み継がれる作品や多くの和歌を残している。また、当時の雰囲気を漂わせる「一葉ゆかりの井戸」が残る。

八百屋お七墓(円乗寺)

江戸観音12番札所としても知られる天台宗円乗寺。井原西鶴の名作『好色五人女』などで有名なお七(1668〜1683)の墓がある。お七の生家は駒込片町(一説によると本郷追分とも)の有数な八百屋であった。1682年12月の天和の大火で家が焼け、菩提寺の円乗寺(吉祥寺説は誤り)に避難したが、避難中に円乗寺の小姓山田佐兵衛と恋仲になった。やがて家は再建され戻ったが佐兵衛あいたさに付け火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年3月火あぶりの刑にされた。

徳田秋声旧居跡

自然主義文学の巨匠、徳田秋声(1871〜1943)の旧居跡。金沢から上京後、現在の文京区内で居を代えたが、明治39年から没するまでこの地に住んだ。『新所帯』『黴』『あらくれ』など数多くの名作を生み出した。

徳川慶喜終焉の地

徳川慶喜(1837〜1913)は、水戸徳川藩主斉明の子として江戸上屋敷(現在の後楽園)で生まれ、一橋家の家督を継ぎ、慶応2年(1866)15代将軍に就任。翌年、大政を奉還したが、鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸開府の後、恭順の意を表し、水戸にて謹慎の後駿府に隠棲した。明治30年東京に戻り、同34年この地に移り住み、もっぱら趣味の世界に生きたという。徳川慶喜(1837〜1913)は、水戸徳川藩主斉明の子として江戸上屋敷(現在の後楽園)で生まれ、一橋家の家督を継ぎ、慶応2年(1866)15代将軍に就任。翌年、大政を奉還したが、鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸開府の後、恭順の意を表し、水戸にて謹慎の後駿府に隠棲した。明治30年東京に戻り、同34年この地に移り住み、もっぱら趣味の世界に生きたという。

坪内逍遙旧居跡

小説家・評論家・劇作家・英文学者・教育者として幅広く活躍した坪内逍遥(1859〜1935)の旧居跡。『小説神髄』をここで著し、文壇に写実主義を主張した。また、『当世書生気質』を創作した。ここには、明治17年から3年間住み、近代文学の礎を築いた地である。

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