米内光政の墓
岩手県盛岡市南大通三丁目11-49
米内光政(よないみつまさ)は盛岡出身の海軍大臣・首相です。盛岡中学卒業後、海軍兵学校、海軍大学校へと進みました。連合艦隊指令長官などを経て、太平洋戦争を前にした昭和12年から海軍大臣、同15年から半年間総理大臣を歴任し、この間日独伊三国同盟締結に一貫して反対し続けます。同19年に海軍大臣に復帰して太平洋戦争を終結に導きました。沈着にして的確な判断力と一方に偏らないその姿勢は、閣内で重きをなし、「良識の提督」として多くの信望を集めました。光政の生涯は一貫して天皇の海軍を預かる天皇の軍人といってもいいほどでした。相沢中佐事件、2・26事件などで、若手将校を微動だにさせなかったのは、彼の人徳と実力を現しています。彼は日本海軍を侵攻用と考えず、防衛用と考えました。戦前・戦後を通じ政治に関与しながらも、軍人としての名声を保持している数少ない人物であり、能筆でも知られています。