森鴎外(森林太郎)の墓
東京都三鷹市下連雀4-18-20禅林寺
森鴎外は、文久2(1862)年、島根県鹿足郡津和野町(現・津和野市)の生まれ。本名を林太郎という。森家は代々津和野藩主亀井家の典医。東大医学部を卒業後、軍医としてヨーロッパに留学し、陸軍医務局長や陸軍軍医総監の地位に進む。その一方、文学にはげみ、明治文壇の重鎮として大きな業績を残していく。主な作品には、「舞姫」「うたかたの記」「鴈」や歴史小説「阿部一族」「山椒大夫」などのほか「即興詩人」等の翻訳や評論活動でも知られている。大正11年(1922)、61歳で病没。墨田区向島の弘福寺に埋葬されたが、関東大震災で寺が全焼し、昭和2(1927)年に同じ宗派であった禅林寺に森家の墓地が移された。墓碑には、遺言によって一切の栄誉・称号を排して、「森林太郎墓」とのみ刻されている(墓碑は、中村不折の書)。このことは、境内にある遺言碑に記されている。毎年7月9日に鴎外忌が催されている。なお、鴎外の墓に並んで演劇評論家として歌舞伎の革新等にも功績をあげた弟篤次郎(筆名・三木竹二)の墓がある。