全日本の観光地へ
天下安泰を願う源頼朝に、巳の年の1185年(文治1)、巳の月、巳の日の夜、「この水で神仏を供養すれば天下は太平に治まる」という夢のお告げがあり建てられたと伝える。その後、北条時頼が銭をここの水で洗い、一家繁栄を祈ったことにならい、人々が銭を洗って幸福利益を願うようになったという。銭洗水は鎌倉五名水の一つ。
開山は忍性、開基は二代執権北条義時の三男重時で、1259年(正元1)に建立された。全盛期には、金堂、講堂、十三重塔などの伽藍のほかに49の塔頭を備えた大寺院だったが、合戦や火災、地震等により、今ではただ一つ残った吉祥院が本堂となっている。鎌倉三十三観音第22番・鎌倉二十四地蔵第20・21番。
鎌倉大仏の名で親しまれている。大仏の高さは11.31m(台座を含めると13.35m)、重量約121tあり、現在の金鋼仏は1252年(建長4)に鋳造が始められ、仏像としては鎌倉で唯一の国宝に指定されている。完成当時は全身に金箔が施され、大仏殿内に安置されていたが、その後に地震や津波で大仏殿が崩れ、露座の大仏になっている。境内には、大仏を詠んだ与謝野晶子の歌碑のほか、3基の文学碑が立っている。
1218年(建保6)に北条義時が建立した大蔵薬師堂をもとに、1296年(応永4)に北条貞時が心慧上人を開山として覚園寺を創建。北条氏、後醍醐天皇、足利氏と代々の為政者に保護されてきた。拝観時間は決められており時間厳守。静寂な境内を寺僧の案内で各堂を巡り、多くの仏像に詣でられる。本尊は木造薬師三尊像。鎌倉二十四地蔵第3番。※お寺の説明を聞きながらの拝観になりますので、拝観時間に合わせてお越し下さい。
由比ヶ浜の南西端に突き出す懸崖で、かつては霊仙山とつづいていたが、現在はドライブウェイで切断され島のように見える。1333(元弘3)年新田義貞が鎌倉を攻めるとき、黄金作りの太刀を海に投じて潮を引かせたという話は有名である。結核菌・コレラ菌発見などで有名なドイツ人のロベルト・コッホ博士の碑が立つ。また、岬の西側の高台は稲村ガ崎公園になっており、新田義貞の碑や『真白き富士の嶺』の歌で知られるボート遭難の慰霊碑が立ち、遊歩道が設けられている。
鎌倉時代には、和賀江津と呼ばれ、日本各地から鎌倉に入る船で大いに賑わった。また、源実朝が宋(中国)に渡る計画を立て海に船を浮かべようとしたが、遠浅のため船底が砂につかえ動かず、とうとう船を浮かべることができなかったという話も残っている。
日本映画の発展に大きく貢献した川喜多長政・かしこ夫妻の旧宅跡に映画文化の発展を期して平成22年4月に建設されました。記念館では、映画資料の展示、映画上映を始めとし、映画関連資料の閲覧やWeb検索もでき、また、講座・講演会やワークショップなども年間を通じて開催されます。
昭和4年に華頂博信侯爵邸として建てられた貴重な洋風建築物。鎌倉の緑深き谷戸の中にあるというロケーションの魅力とともに高く評価されています。平成18年4月には市の景観重要建築物、同年10月に国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。
弘安5年の建立だが、応永28年、永禄6年の両度の火災に遭い、現在の舎利殿は太平寺仏殿を移築したものと伝える。禅宗様の、最も純粋な形式を示す例として知られる。国宝に指定されている。
龍宝寺境内にある。もと市内関谷にあった江戸時代初期の農家を移したもので、正面15.5m・側面9.1m・茅葺・寄棟造。内部は、ひろま・でい・へやの3間からなり、当時の農家の典型的な様式を示すといわれる。石井家は小田原北条氏の地侍から発し、近世は名主の家柄であった。