近世高崎は、中山道、三国街道、日光例幣使街道が通る交通の要所であった。高崎には倉賀野、高崎の2宿があった。倉賀野宿は、烏川河岸を合わせた宿場で、日光例幣使街道と分岐するところからも交通の要地だった。1884(明治17)年、鉄道が敷設されるまで水上輸送の要地としてさかえ、烏川の共栄橋すこし下流の「倉賀野河岸の碑」と、現在でも残る黒板塀、白いしっくいの土塀の家屋が往時の繁栄ぶりを伝えている。
群馬県高崎市倉賀野町
(1)JR倉賀野駅から徒歩で
規模:木造10軒
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