舛屋伊兵衛は宝暦治水工事の際、ただひとり人柱となった人物。養老郡多良の生まれで、領主高木内膳の下人となって江戸・神田紺屋町に住んでいました。宝暦4年(1754年)2月、薩摩藩による木曽三川の御手伝普請(治水工事)が始まり、内膳が水行奉行という幕府方の工事監督になると伊兵衛も一緒に美濃に帰ってきました。伊兵衛は同年9月22日大榑川洗堰の工事現場にやってきて、凄惨なまでの難工事を目撃、「これは水神の怒りによるものだ。人柱となってその怒りを鎮めよう」と濁流に身を投じたのです。
岐阜県安八郡輪之内町大薮1865
(1)岐阜羽島駅からバスで
備考:無料
-