須佐神社

和歌山県有田市千田1594
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営業時間
  • 営業日: 

基本情報

須佐神社の祭神は素戔嗚尊です。須佐神社の起源は和銅6(713)年10月初亥の日に大和国吉野郡西川峰よりここに移したといわれています。また神武天皇55年乙卯正月初卯日に大和国吉野郡西上之峰からこの地に移るという説や、その他の説もあって鎮座の年月は証らかではありませんが、10世紀に定められた延喜式の神名帳に載せられている有田地方唯一の式内社で、古からの存在がわかります。社殿は初め西向きに建てられていましたが、海上を往来する船が遙拝を怠ると転覆や難船に遭うことが多かったので、元明天皇の勅命によって南向きに建てられるようになったといわれています。素戔嗚尊の子神の五十猛命を祀る伊太祁曽神社と関係が深く、伊太祁曽神社の近くには口須佐・奥須佐の地名も現存していて、お互いの社領が双方にあったといわれ、天正のころ(1573〜91年)までは秋祭りに神馬12騎が伊太祁曽より来て、千田の神事を勤めたと伝えられています。天正7(1579)年3月に織田信長の武将、羽柴秀吉がこの地に侵攻したときに、湯浅の地頭白樫氏が内応して社殿等を壊したので、神器、霊宝や縁起・記帳等を唐櫃2つに納めて、神光谷という谷の林の中に隠しましたが、それも捜し出されて焼かれたり海に投げ込まれたりして、今は何も残っていないといわれています。社殿の修復は江戸時代の寛永・正保のころ(1624〜47年)に藩主徳川頼宣が当社を尊信して、復興を図り元の姿に戻して現在に至っています。10月14日の秋祭りには神社より高田の浜に神輿が渡御の後、献鯛が投げられ以前はこの鯛の奪い合いが有名で、一名「かけ鯛」とも「喧嘩祭り」ともいわれています。また享保年中(1716〜35年)に徳川吉宗が太刀一振と神馬1頭を寄進しています。この太刀は現在国の重要文化財に指定されています。

住所

和歌山県有田市千田1594

アクセス

(1)箕島駅からバスで

その他

創建年代:713


詳細情報

  • 予算

    -

  • 駐車場

    -


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