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森鴎外墓所

永明寺の山門を入って左手の墓地に、東京三鷹より分骨された森鴎外の墓が建っています。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺書に残したとおり、「森林太郎墓」とだけ刻まれています。

鯉の米屋

定休日:無休

ここでは数少なくなった津和野の風習を観ることができます。

青原八幡宮

青原八幡宮の「くろがねもち」は境内参道の入口にあって、目通り周囲3・8m、高さ22.1m、樹幹250年「くろがねもち」では県下第1の樹木。もと参道をはさんで両側にあったが、右側の樹は台風で倒れて1本になった。冬になると赤い実をつける。「くろがねもち」では、松江城山に国の天然記念物に指定された大きな樹かあった。これは目通り周囲5.5m、高さ15.1m、樹齢は300年という大きなもので、「くろがねもち」の北限(北の限界)ということであったが、先年枯れた。あとからわかったところではこれよりも北の鳥取県にもあったということ。この辺りで大きいのは益田市乙吉にあるもので、目通り周囲3.5m、高さは大体同じくらいで青原の樹よりわずかに小さい。

下瀬山城跡

吉見氏の一族、下瀬氏の居城跡で、礎石と五代頼郷と六代頼重の墓が残っている。下瀬氏は津和野・三本松城の北の備えとしてここに城を築き、慶長5年(1600年)吉見氏か長門国に移るまで八代約300年間、この地方の統治にあたった。下瀬氏が下瀬山に城を築いたのは、北条高時が執権をしていた頃のこと。鎌倉幕府の終わりから足利時代、戦国時代、そして関ケ原の戦いが終わるまでの長い間、この地方の統治にあった。下瀬山を中心として小瀬に大獄城、青原に尾中山城、鹿谷に能登呂城、中木屋城などの砦を構え、守りを固めていた。その頃のこの地方の中心は下瀬山で、この周囲に下瀬氏や主だった家来の館があったため、三渡から脇本あたりは城下だった。下瀬氏は家の子郎党とともに、まだ田や畑も少なかったこの地方の原っぱや山合いを開いて村をつくっていった、といわれる。現在、下瀬山城の本丸にあたる項上には、高津川に向かって、東に六代頼郷の墓、西に五代頼垂の墓がある。一度破損したため昭和50年に建て替えられた。下瀬山対岸にある脇本の山にも、下瀬加賀守の墓と伝えられる宝篋印塔がある。

山陰道

中世の旧街道が県道整備で発掘されました。津和野町中座地区で現在行っている県道整備に関連し、町教育委員会の調査で発掘した旧街道「山陰道」の石畳がいま注目を集めています。発掘した石畳は、延長150メートルで幅3メートル。石が積み重なり、隙間は土で固められています。これは中世にできた旧街道の一部で、江戸時代には下関と京都を結び、商工業者の流通道として活用されていました。ここは幕末期には石畳を通って長州藩と津和野藩が交渉し、戦火回避につながった道で、技術面など津和野藩の歴史を検証する重要な資料であることは間違いありません。

亀井温故館(亀井家別邸)

1989年に設立した財団法人・亀井温故館(亀井茲基理事長)が、亀井家別邸内に建設。同家に伝わる武具、刀剣類、古文書、美術工芸品を持つ。中でも、幕末の12代藩主・茲監の業績をまとめた文庫や、13代藩主・茲明が収集した19世紀ヨーロッパの染織、壁紙コレクションが名高い。新たに織田信長と豊臣秀吉から送られた文書や、亀井理事長の父・茲建氏が描いた日本画などを展示する。春季と秋季に特別に開館する。

永明寺山門入口/つわぶき

津和野は「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツにもつといわれています。

アジサイロード

林道沿い約2kmに渡り、あじさいが植えられています。通りがかる人の目を楽しませています。

永明寺/もみじ

紅葉に彩られたなだらかな坂を上り、門をくぐると巨大な茅葺きの境内が目の前に広がります。特に大きなイチョウの木が見事です。

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