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大浜崎キャンプ場

開設:7月〜8月

因島大橋完成を記念してつくられた美しい公園。海峡を行きかう船と大橋を眺めながら、グループで、家族連れで軽スポーツを楽しもう。大浜埼灯台と灯台記念館、レストハウス、キャンプ場、チビッコランドなど見どころ、遊び場所がいっぱいです。

大浜埼灯台

明治27(1894)年の点灯以来、現在も海の安全を守っている。隣接の旧大浜埼通航潮流信号所は現存する唯一の木造海洋施設として土木遺産に認定され、灯台記念館として保存されている。平成23年4月に広島県重要文化財に指定された。

因島公園

国立公園特別地域に指定された因島公園からは、無数に点在する瀬戸内の島々が一望できる。公園内には高さ5mの鯖大使像やつれしおの石ぶみ(文学の散歩道)、展望台からの眺望など見どころがいっぱい。桜の名所として多くの花見客も訪れる。

王子塚

皇子宮とも呼ばれる町の氏神五柱神社の社務所北側に急流か荒波で丸くなった大小の礫を円形に積み上げた積石塚古墳がある。今から千六百年ばかり前、五世紀初頭の古墳で、因島古代研究の第一人者、故中島忠由先生は、「当時高貴の方が唐からの帰国途中に亡くなられ、玄海の荒磯の石を集めて泊地船所であったこの場所へ埋葬されたものと考えられる。」と説明なさっていた。造礁サンゴの礫もあるので有力説。皇子宮がこの丘に祠られたのも、この古墳の被葬者の高貴な身分に由来するかとも考えられる。

長崎城址

因島の南部、伊予に属す生名島・弓削島を指呼の間にのぞむ位置にあり、かつては一小島で、本丸と思われる跡は、現在宿泊所ナティーク城山として利用され、旧状をとどめていない。その本丸から南西に3段の郭が船隠しにつながっている。城の周囲は工場の拡張と街区の拡張で、関連の遺跡はほとんど失われ、城の南西に船隠しがあって船を繁留するための岩をうがった杭穴が数年前まであったが、今は造船所の拡張によってコンクリートで埋められ、2・3個しか確認できない。今岡通任は小早川氏と対抗しながら北上し、因島を横領していたが、天授三年長慶天皇の命をうけた村上師清が信州更級郷から下向、今岡通任に服従を要請したが、通任は聞き入れず、鶴島箱崎浦の合戦となり師清は勝利をおさめ南朝方の勢力をとりもどした。師清は、又三郎吉豊を因島本主家を継承させ、土生の長崎山を居城とした。以来百八十年間因島村上水軍の本城であった。なお、城の東方の天狗山の尾根先端部にある荒神山城とは、100mをへだて相対しており、この城は長崎城の控えの城と言われている。

青木城址

因島村上氏最後の拠点で、永禄10年(1567)に村上新蔵人吉充が向島立花の余崎城から移ったとされている。重井湾を臨む孤丘上の水域で、のちには村上氏が小早川氏の旗下となり、関ケ原合戦後は毛利に従って防長に移り、城は廃されている。

青陰城址

村上水軍の本拠地であった城。本丸跡などの遺構が残り、眺望がよい。因島のほぼ中央部、風呂山と龍王山にはさまれた標高275.7mの青影山頂にあり、三庄方面を除く島のほぼ全域及び周辺海域が見渡せる眺望のきく場所に位置し、現存する郭は、龍王山との間を急崖で区切った三の丸を西端に、幅15m長さ32m本丸があり、東に46mの通路の先が幅13m縦26mの二の丸、一段さがって屋敷跡と考えられる郭、更に一の木戸があったと伝えられる削平地に達する。また、二の木戸を南に下ると、今岡氏屋敷跡と伝えられる削平地があるが崩壊が甚だしい。遺跡に関する伝承等城は、島の中央にあり、海賊城ではなく、もとは長崎城・青木城・余崎城などの見張り連絡の場所であったが、のち因島村上氏が小規模ながら戦国大名の性格をもつと、本城の役割をはたすようになったのだろう。城主は村上水軍第一家老1430貫を領した、救井太郎左衛門尉源義親であったと伝えている。

因島水軍城

開館:9:30〜17:001月1日〜3日は10:00〜15:00 休館:木12月29日〜12月31日祝祭日を除く

村上水軍とは因島村上・能島村上・来島村上の「三島村上氏」の連合集団。この三島村上氏は室町時代から戦国時代にかけて瀬戸内海の強大な制海権を握っていた。因島水軍城本丸は水軍資料館になり、海外との交易でその富を築いた村上水軍関係の資料が展示されている。

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