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初め、湯島切通坂下に建立された。開基は、春日の局の息子の稲葉正勝である。明暦の大火後この地に移る。境内には稲葉正勝の古塔ほか、墓域には江戸時代の漢学者安井息軒や明治時代の啓蒙学者西村茂樹等が眠る。
墓地内に、江戸町人文学の中心的な存在であった「大田南畝」が眠っている。(区指定文化財)
寛文12年(1672)に創建。墓地内には、日本における最初の特志解剖志願者でわが国の近代医学の発展に大きな貢献をした「美幾女」が眠っている。(区指定文化財)
寛永7年(1630)現在地に「解脱寺」として起立。小石川七福神の一つである弁財天(男)を祀る。
慶長2年(1597)開創はじめ神田柳原にあったが、慶安2年現在地に移り久しく「駒込の大円寺」と呼ばれた。墓域には、幕末の先覚者であり砲術家の高島秋帆・小説家であり樋口一葉を終生助けた斉藤緑雨が眠っている。また、八百屋お七との縁のあるお寺で山門真正面にある「焙烙地蔵」は、八百屋お七ゆかりの地蔵である。
応永22年(1415)浄土宗中興の祖、了誉聖冏上人がこの地で庵を開いた。その後、徳川家康の生母お大の方が現在の伝通院に葬られ、聖冏の開いた庵を移し「伝通院」とした。元和7年(1621)松平忠輝の母(家康の側室)の墓所となり、法名にちなみ吉水山朝覚院宗慶寺と称するようになった。茶阿局の墓がある。小石川七福神の一つ、寿老人を祀る。
伝通院塔頭寺院として現在地に創建された。伝通院の学寮に沢蔵司という修行僧がいた。僅か3年で宗義を極めた。ある日学寮長の夢の中に現れ「余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて勉強をしたいと思っていた長年の希望ここに達した。今より元の神に帰るが、長く当山(伝通院)を守護して、恩に報いる」と告げて暁の雲に隠れたという。そこで伝通院の住職は、境内に沢蔵司稲荷を祀った。
将軍家の武運長久の祈願寺として創建された。伽藍(がらん)が整い、学寮もあり土塀をめぐらした江戸時代の名刹(めいさつ)であった。関東大震災と第二次大戦で焼失し、現在の本堂は昭和51年の再建である。墓地内には、幕末期の蘭学者緒方洪庵夫妻の碑や明治・大正期の歌人岡麓の墓がある。
現在の和田蔵門内に創建され、その後明暦年間(1655-1657)に現在地に移転してきた。著名な墓碑等は、江戸庶民に富士信仰を広めた富士行者身禄の墓、江戸後期の儒学者立原翠軒夫婦の墓がある。
浄土宗天暁山一行院満徳寺寛永3年(1626)現在地に草庵を結び一寺を建立。その後文化14年(1817)徳本行者を中興の開山とする。徳本行者:念仏聖として諸国をめぐって念仏を広めた。木魚と鉦を激しくたたく独特の念仏を広め幕末の不安の中で熱狂的な信者を集めた。