長崎堤防
「親がやろうとて行かれよか高江高江三千石火の地獄」の歌があるように、かつての高江は川内川の汐が流入する入江状の低水地で、ろくに米もとれない不作地帯でした。第19代藩主島津光久は小野仙右衛門を奉行に任じ、この地の大規模な干拓工事を命じました。延宝7(1679)年に着工し、約8年の歳月を費やして貞享4(1687)年に長崎堤防が竣工しました。その結果、この辺り一帯は300町歩(約3万平方キロ)にも及ぶ立派な水田に生まれ変わりました。当時の工法はそのほとんどを人力に頼り、その上度々洪水に襲われたため、大変な難工事でした。仙右衛門は苦心の末、鋸の歯形の堤防を考案し、ようやく川内川の激しい流れを抑えることに成功しましたが、そこには仙右衛門の一人娘袈裟姫が人柱となって身を投じたとの伝説も残っています。近くには仙右衛門の功績を称える小野神社が祭られ、川岸の雑木林の中にある岩には仙右衛門が刻んだ「心」の文字が今も残っています。