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白幡神社

下郷集落の鎮守である。由緒について「社寺台帳」には、大同3年(808)勧請と記されている。牛尾、船越両村の社でここだけが古く、またこの社から北へ1km程の所にある千田村の諏訪神社が、境の宮とも呼ばれ国郡町の境に祀られているが、この社も全く同じで、境内西側にかすかに残る旧道が上総下総の国境になっている。そして多古町師弟無形民俗文化財の「蛇祭り」は、この社でも行われる。

潮神社

上郷集落の鎮守である。大正時代に、集落内にあった「子の大神」と「稲荷社」に改めたという。「社寺台帳」には、三社いずれも由緒は文禄3年(1594)新田開墾時に創立と記されている。そして、多古町指定無形民族文化財の「蛇祭り」が行われるのがこの社である。

熊野大神

旧船越村の鎮守である。由緒について「社寺台帳」に文禄元年(1592)新田開墾の時に勧請と記されている。この地は、別名「丸山」と呼ばれる独立した小山の上にある。もとは西側の丘陵地と続いていたが、水田を造るためにここだけ残して削られたという。そして、その時代を社の由緒書が物語っている。

八幡大神

旧島村の鎮守である。由緒を記した文書は残されていない。村全戸が日蓮宗不受布施派で、お祖師様以外の神仏に頼らない時代が長かったため、社の記録が失われたのであろう。近年、村の歴史の深さを物語るように、社の南側から弥生中期の再葬墓が多数発見され、学会の話題になり、発掘場所に公園を造る事業が進められている。

天神社

通称城山と呼ぶ丘の上にあり、由緒についての記録はない。この地は西側大地から岬状に突き出た古城跡の一部であったが、後年道路を作るために切り開かれ、ここだけが独立した丘になった。そして、切り開かれた地にある集落を「切り通し」と呼ぶ。またある時、社のご神体の木像が盗難にあったが、数日後に神崎河岸で盗人が捕えられて像は社に戻ったという神力を物語る話も残っている。

大宮大神

旧多古村の鎮守である。由緒について「社寺明細帳」には、祀神天正大神由緒不詳と記されている。城下町らしく、奉納物には藩士の名前が刻まれた物が多い。御神体ともいうべき天正皇太神御影軸には、大要次の様に書かれている。この掛物は文政6年(1823)に再表具したもので、正月祭日と4月のお田植神事の両祭礼日だけ別当所に渡すが、その他は御陣屋御宝庫に入置くものである。

三輪大神

旧染井村の鎮守である。由緒について「社寺台帳」には不詳と記されている。しかし、この村は染井中務という公卿が土着して村名になったとか、村内の地名原一帯を開発して名乗としてのが千葉氏一族の原氏だ、などの語り伝えを残している古い村である。また社は多古から江戸への街道沿いにあって、社殿は嘉永6年(1853)に建てられたものだが、彫刻の見事なことで有名である。

高皇産霊社(五反田地区)

旧五反田村の鎮守である。由緒について「社寺明細長」には不詳となっている。そして、明治元年(1868)に戸長萩原氏は社について次の様に記している。戸数10戸、人員60人この村は昔から、火災、南山、身体の不自由な者が無く、長寿村で、これも鎮守様のご霊験によるものである。また、元禄の頃(1688〜1704)社殿脇の松の大木が傾き本殿が危なかった時、村人達が祈念したところ一夜の内に大木が立ち直ったとある。

星之宮神社

喜多999番地に祀られている旧東台村の鎮守である。由緒について「神社台帳」には、慶長5年(1600)勧請と記されている。そして、本殿に並んで多くの謎を投げかける一基の板碑(石造卒塔婆)が立っている。内容は、平喜阿が永和元年(1375)に造った逆修碑(生前供養)なのだが、喜阿を名乗る人の俗名と造立時代が、今までの研究とはそぐわない謎の石文である。

天御中主神社

旧大原村の鎮守である。由緒について「神社台帳」には、慶長4年(1599)勧請と記されている。旧称は妙見社だと思われる。そして、この村は多くの史書にその名を残している。寛治の頃(1087〜1093)に、原を名乗る武士の名が「千葉系図」に載っており、「瀧門寺縁起」(飯笹)に久安年中(1145〜1150)大原の城主加藤兵庫守の名が見える。

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