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稲荷神社(谷三倉地区)

旧谷三倉村の鎮守である。この村は隣村の本三倉と一つの村であったが、慶安2年(1649)に独立したとの古文書がある。このことから考えると鎮守の勧請もそれからではなかろうか。それに加えて東松崎村の坂東稲荷本宮(旧称)と兄弟社であるとの伝説もある。

熊野神社(谷三倉地区)

旧小三倉村の鎮守である。小三倉村は、本三倉、谷三倉、三村で三倉と称する一村であったが、他に先立って独立している。しかし、明治になって十件程の小世帯であったことから、谷三倉と合併して小三倉は字として残る。したがって、和歌山県に本宮のある熊野神社を鎮守として、勧請したのは谷三倉の鎮守より古い時代なのかも知れない。また村には途絶えていた「おびしゃ」を寛政12年(1800)に再興したとの古文書も残されている。

惣躰神社

伊弊諾(いざなぎ)、伊弊冉(いざなみ)の夫婦神を祭神として祀られている旧次浦村の鎮守である。神社の縁起については、延暦16年(797)9月16日次浦の原に遷し奉る・・・・との文書があったと伝えられている。そして、正月神事として「おびしゃ」が行われ、このことは慶長5年(1600)から続いて現在も「御日記」として当番の名前と当年の米価社会変化と共に記録し続けられている。そしてこの村には、永仁3年(1295)、元応2年(1320)の板碑(石造卒塔婆)がある古い村である。

五所神社

旧西古内村の鎮守である。祀神は日本武尊だけで由緒は不詳となっている。村の北側に字「ぼ丁ち」という所があり、いつの頃か「房丁寺」と称した大きな寺があったという伝説や、字「新城」の発掘調査では城跡が確認され、焼けた「にぎりめし」等珍しい遺物が発見されていて、歴史的にも謎の多い村である。

熊野神社(高津原地区)

旧高津原村の鎮守である。神社の由緒は不詳と言われているが、この村は「延喜式」に記されている高津原馬牧はこの村だとする一説もあり、また乾元2年(1303)の刻字のある板碑(石造卒塔婆)もあって、遠い昔から開発された村だと考えられる。

天御中主命神社

旧御所台村の鎮守で、旧称は妙見社である。文明3年(1471)戦に敗れた古河公方足利成氏が、この地に逃れて敗残の身を養い、公方の住いを御所と称したことから、村名が生まれたと言われている。社の地も当時の土橋城の一隅にある。

天満神社

旧寺作村の鎮守である。東禅寺境内を横断するように参道があって、明治の報告文書に、東禅寺が別当寺であったと記されているが、火災により全て失われた。祭神で、門外不出の管公自画像は、縁に焼跡を残しながらも数度の火災をくぐり抜けたことから、防火の神として近隣村々から尊ばれている。

日枝大神(井戸山地区)

旧井戸山村の鎮守である。由緒は不詳とされているが、金沢文庫(横浜市)に残されている湛睿の手紙(嘉暦元年(1326)頃と思われる)に、井戸山のことを記している。この時代に村があったとすれば、当然鎮守もあったであろう。現在棟礼で古いものは、寛文6年(1666)のものがある。

親社大神

多古城主牛尾能登守胤仲公の霊を祀った社である。社殿の扁額に記された由緒には大要次のように記されている。源氏堀に城を構えた多古城主であったが、慶長17年(1612)3月8日、飯櫃(現芝山町)城主山室飛騨守の攻撃を受け自刃した。霊を慰めるため有志により慶長19年(1614)この地に祀られたとある。なお、社前の鰐口と銭額は後年城山から出土した古銭で造られたと言われている。

八坂神社

旧多古宿の本町、新町、中町の鎮守である。「縁起書」には、寛永年中(1624〜1643)飯笹村から移したと記されている。町内で最も大きなお祭りの「祇園祭」は当社の祭りであり、千葉県指定無形民族文化財の「多古のしいかご舞い」は「祇園祭」の神事の一つである。この社は町の中心とされていて、参勤交代の行列もここから出発していた。

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