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大名墓(日出藩木下家墓所)

拝観時間:9:00〜17:00

松屋寺はその前身を西明寺といい、日出藩初代藩主木下延俊が、慶長12年(1607)に祖母の朝日の方と妻の加賀の法名から「康徳山松屋寺」と改称した。日出藩木下家の菩提寺である松屋寺の木下家墓所には、歴代藩主(13代・16代を除く)をはじめ、北政所(ねね殿)の母朝日の方の墓や親族、家臣の墓52基が林立している。その数、規模、壮麗さは県内随一といわれている。

帆足萬里墓

見学:自由

帆足萬里は豊後三賢人の一人で、学問の領域は儒学・経済・天文・物理・医学・数学などに及び、特に著書『窮理通』『東潜夫論』『入学新論』は、数多い著書の中で最も傑出したものである。教育者として多くの青年に学問を教え、また一時家老の要職につき、藩政改革に敏腕をふるった。墓は、14代藩主木下俊方の命により建立され、別府湾の風光を眺望するように日出城に向けて建てられている。

糸ケ浜海浜公園

海辺の空間を生かした総合公園。公園内には野球場、テニスコート、海水浴場の他、ログキャビンやオートキャンプ場があり、毎年夏のシーズンには、多くの観光客でにぎわう。

城下公園

日出城趾周辺を城下公園として美しく整備し、町民の憩いの場として親しまれている。特に春になると、多くのお花見客で賑わう。前方に高崎山を望む別府湾の眺望は絶景で、大分県百景や別府八景にも選ばれている。

的山荘

営業:不定休

的山荘は、大正4年(1915年)、馬上金山で巨額の富を築いた成清博愛が建てた別邸で、穏やかな別府湾を一望する約3,600坪の広大な敷地に、江戸時代以降の伝統手法を残した近代和風の豪華な日本家屋、そして別府湾や高崎山を借景とした見事な庭園が広がる。的山荘の名は、博愛が「的山」と号し、漢詩をよくしたことに由来する。「的山」には、鉱山を当てるという意味があるといわれている。的山荘は、昭和39年(1964年)に、成清博愛の孫にあたる成清信輔氏が料亭として開業し、城下かれいの料亭として全国的にその名が知られるようになり、皇族をはじめ多くの著名人が訪れるようになった。皇族の方々が大分にお越しの際は、的山荘がお食事場所として度々利用され、庭園内には8本もの記念植樹がある。1ヶ所にこれだけの皇族の記念植樹があるのは、全国的にも稀である。平成22年から日出町の所有となり、指定管理者(株)まるひで社のもとで管理が行われている。庭園内は午前10時から無料で見学することができる。

松屋寺庭園

拝観時間:9:00〜17:00

松屋寺はその前身を西明寺といい、日出藩初代藩主木下延俊が、慶長12年(1607)に祖母の朝日の方と妻の加賀の法名から「康徳山松屋寺」と改称した。日出藩木下家の菩提寺である松屋寺の木下家墓所には、歴代藩主(13代・16代を除く)や親族、家臣の墓52基が林立している。その数、規模、壮麗さは県内随一といわれている。本堂の前庭には、江戸時代より日本一と名高い大蘇鉄がある。この大蘇鉄は、明暦2年(1656)、府内城主日根野吉明が没すると、日出藩2代藩主木下俊治が城番を命じられ、翌3年の交代帰城の際、日出藩に持ち帰り植えたといわれている。蘇鉄は樹齢約650年ともいわれ、高さ6.4m、株元の周囲4.5m、枝の広がりは東に4m、西に6m、南に5m、北に5mの巨樹であり、雌樹で十数本の枝が株元から分岐している。国指定の天然記念物にもなっている。松屋寺の中庭には、日本名園の一つに数えられている雪舟の庭がある。これは、雪舟が大分の万寿寺での修行時代に、松屋寺に滞在し、この庭を造成したものである。

大山積神社

日出町豊岡の小高い丘の上に建つ大山積神社は、町内でも最も古い神社の1つ。大化4年(647)、村主の夢の中で丁字庵の山腹に神火が現れた。村人と一緒にその方向に行ってみると巨大な大石があったため、その下に祠を建てて産土神とし、石権現と呼ぶようになったという。大山積神社本殿の後ろには、見るものを圧倒する巨石が、御神体として祀られている。その巨石には馬の足跡のような大小無数の穴があり、神霊が白馬に乗って降り立ったという伝説が残されている。江戸時代、大山積神社は森藩久留島家の領地となると、神社の石垣は3年がかりで改修され、武者返しともいえる立派な石垣ができ、城を彷彿とさせる姿となった。

回天神社

日本の敗戦が濃くなった太平洋戦争末期の1945年、日出町大神の牧の内に、1人で操縦する魚雷艇で敵艦を撃沈する人間魚雷「回天」の特攻基地が造られ、4月25日に大神突撃隊が開隊した。この大神基地において、約700名の若者が回天の訓練を積んだ。現在、大神回天基地跡には、水雷壕、回天格納庫、実用頭部格納庫などといった幾つもの岩穴の他、回天の水漏れ等の検査をした調整場プールや士官浴場等が残っている。回天神社は、戦時中は大神突撃隊庁舎内に祀ってあったが、終戦後の昭和21年に元隊員の懇願により、住吉神社の境内に遷座された。回天基地は全国に4ヶ所造られたが、人間魚雷回天の特別特攻隊員の英霊を祭る回天神社が存在するのは、ここ大神だけであり、回天の1/3模型と、海中より引き上げられた九三式魚雷後部が展示されている。

八津島神社

734年、宇佐高春が宇佐神宮領開発のため、宇佐より下向して津島に住み、守護神として八津島宮を建てたとされる。古い歴史をもつ神社だけに、祭りも古くから盛大に催されており、県指定無形民俗文化財の津嶋神楽や辻間楽は、現在も同神社大祭日(10月10日頃)に奉納されている。また、参道の二の鳥居は、地上より1.5mほどで2段つぎつぎがなされ、笠木、島木ともに柱に近い部分でついである珍しいものであり、大友宗麟が寄進したものといわれている。

龍泉寺

龍泉寺には、瀧廉太郎とその祖先の墓がある。滝家は歴代日出藩の要職を務め、滝廉太郎の祖父、平之進吉惇は帆足萬里の高弟で、萬里と共に家老を務め、藩政の改革に寄与した。父の吉弘は、廃藩後明治5年に上京し、明治政府の役人として大蔵省・内務省の出仕、大久保利通の秘書を務め、伊藤博文の知遇も得た。廉太郎はこの間に東京で生まれた。明治22年から家族共々郷里大分に帰り生活を送る。その際、家族と一緒に墓参または親族に会うために日出町に来たということは想像にかたくない。「荒城の月」は、滝廉太郎が日出城趾を訪れ、岸にくだける波の音が、多感な少年時代の彼の耳に残され、あの名曲の旋律になったのではないか、という説もある。もともと瀧廉太郎の墓は大分市の万寿寺にあったが、祖先とともに葬りたいとの親族らの意向により、平成23年に祖先の眠る龍泉寺へ移設された。

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