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啄木望郷の丘

市内が一望できる岩山山頂にあり,昭和57年,照井栄氏によって作られた「啄木望郷の像」があります。高さ345メートルの岩山山頂近くが公園として整備され、「啄木望郷の丘」として親しまれています。「啄木望郷の像」はふるさとの姫神の山にむかい、啄木がもっとも愛した「岩手山秋はふもとの三方の野に満つる蟲を何と聴くらむ」の望郷歌が刻まれています。そばには全国的にも例をみない詩人夫妻の”夫婦歌碑”が建てられ、啄木の「汽車の窓はるかに北に故郷の山見えくれば襟を正すも」と妻節子の「光淡くこほろぎ啼きし夕より秋の入り来とこの胸抱きぬ」の二首が刻まれています。志半ばにしてわずか20代の若さで貧しさのうちに病に冒され、相次いで世を去った二人は、今は歌となってふるさとの山河を見つめています。この公園の上にある岩山展望台からは、北上川・中津川・雫石川が流れ遠くに岩手山や姫神の美しい峰を望む「杜と水の都」盛岡を360度のパノラマで見下ろすことができます。

立原道造詩碑

昭和初期の詩壇にすい星のように登場し、24歳で帰らぬ人となった四季派の叙情詩人・立原道造(たちはらみちぞう)。彼は昭和13年9月から10月まで盛岡の深沢紅子(ふかざわこうこ)氏生家の別荘に滞在した。その間盛岡での叙景や心情を綴ったのが「盛岡ノート」。光あれとねがふとき光はここにあった!・・・で始まる「アダジオ」もこの作品の中の一つで、愛宕山中腹の松林の中に碑が立っている。付近は立原が滞在の折に散策した、なだらかで美しい丘陵です。死の前年の秋,盛岡に約1カ月逗留。盛岡での叙景や日々の心事をつづった「盛岡ノート」の中の一編である。

宮沢賢治詩碑

盛岡で中学・高等農林時代の青春期を過ごした詩人童話作家。賢治の死の一カ月前にあたる8月22日の日付のある文語詩百編の中の一つ。※「かなた」と老いしタピングは杖をはるかにゆびさせど東はるかに散乱のさびしき銀は声もなしなみなす丘はぼうぼうと青きりんごの色に暮れ大学生のタピングは口笛軽く吹きにけり老いたるミセスタッピング「去年(こぞ)なが姉はこゝにして中学生の一組に花のことばを教へしか」弧光燈(アークライト)にめくるめき羽虫の群のあつまりつ川と銀行木のみどりまちはしづかにたそがるゝ

石造十六羅漢付五智如来

江戸時代の盛岡藩の4大飢饉といわれる元禄・宝暦・天明・天保の大凶作によって、領内には多くの餓死者が出た。祇陀寺14世天然和尚は、その悲惨な餓死者を供養するために、十六羅漢・五智如来の合計21体の石仏建立を発願した。そして領内から浄財の喜捨を募って、天保8年(1837)工事に着手した。下絵は藩の御絵師狩野林泉が描き、石材は市内の飯岡山から切り出し、藩の御用職人の石工7人が3年かかって荒刻みを行い、北上川で舟を渡して、建設場所の祇陀寺末寺の宗龍寺境内に運びいれ、最後の仕上げをしたものだという。しかし、宗龍寺は明治維新後に廃寺となり、明治17年(1884年)に盛岡の大火で寺院も焼失したので、現在21体の石仏群を残すのみである。

ムカデ姫の墓

高さ3mほどの石の塔。昔、於武(おたけ)の方は、先祖がむかで退治に使った矢の根を持って、南部家27代利直公に嫁いできました。於武の方が亡くなったとき、遺体の下の変色した形が、むかでのはいまわる姿に似ていたことから、「於武の方が持ってきた、むかでを退治した矢の根石の怨念にちがいない」と人々は驚き恐れました。この奇怪な出来事に利直公は、むかでは水を嫌うことから、堀をめぐらした土手の上に、石垣でかこまれた墓の建立を命じました。ところが、堀にかこまれた墓地に見事な橋が架けられ、殿様の渡り初めを待つ夜に、不思議なことに一夜のうちにその橋が壊され、大騒ぎとなりました。その後、何度橋を架けても、むかでが出て壊してしまいました。於武の方の墓には、大小のむかでが無数に出て、於武の方の髪の毛が片目の蛇となって石垣の間からはいまわり、墓守は石の間に鉛を流し込んで防いだともいわれています。人々は、これらの出来事は矢の根石にまつわるむかでの怨霊のせいだと噂し、いつしか於武の方をむかで姫、墓地を「むかで姫の墓」と呼ぶようになりました。

新渡戸稲造記念碑

五千円札の顔として皆に親しまれている新渡戸稲造(にとべいなぞう)は、1862(文久2)年、盛岡市に生まれました。札幌農学校に進学し、そこで生涯を通じた合理主義・自由主義・国際人としての基礎を培いました。卒業後はアメリカ、ドイツへ留学して農学・経済学などを学んだあと、国際的な教育者として多くの人材を育てました。また、「武士道」に代表されるような著作活動によって日本文化の海外紹介につとめました。当時立ち遅れていた女子教育にも取り組み、東京女子大学初代学長となり設立に尽力しました。国際連盟事務次長をはじめとする要職につき、国際平和に貢献、カナダのビクトリア市で亡くなりました。現在、盛岡市とビクトリア市は新渡戸を縁として姉妹都市となっています。ビクトリア市の太平洋を望む丘には、盛岡の盛岡城跡公園にある記念碑と同じものがたてられています。岩手公園にあるこの碑に刻まれる、西洋の文明を日本へ、日本の文化を西洋へとの彼の願いを象徴した、「われ太平洋の架け橋とならん」という言葉は、あまりにも有名です。新渡戸こそ、日本を代表する初の国際人といってもよいでしょう。

材木町よ市

営業:土4月上旬〜11月下旬15:10〜18:30

材木町で開かれる「よ市」は、毎週土曜日の夕方から始まり、全長430メートルの通りが歩行者天国になります。40年前から続いている市で、いーはとーぶアベニューは一層にぎやかさを増します。野菜や果物、生花に山菜など旬のものがずらりと並び、出会いとふれあいを発見できます。

志波城古代公園

開園:3月15日〜12月20日 開園時間:9:00〜17:00

平安時代初め(803年)に築城された志波城跡の外郭南門や築地塀を復元して公開しています。歴史上中央政府が築いた日本最北の城は古代の志波城といわれています。盛岡が日本北限の築城の地に選ばれたのは、当時米作の北限が盛岡だと考えられていたからだと思われます。志波城跡の南辺に約1200年前に築城されたときの姿が復元され、中央に配した南門は間口15メートル、奥行き6メートル、高さ11.1メートルあり、平城宮跡朱雀門(奈良市)に次ぐ大規模な門です。その両側それぞれ126メートルに土を層状に固めた築地塀をめぐらしており、塀の上には櫓(やぐら)を組んでいます。

岩手県立御所湖広域公園

開園:4月1日〜11月30日9:00〜17:00期間中無休乗り物広場4月中旬〜11月上旬9:30〜16:30休木曜祝日の場合は水曜が休園

北上川の5大ダムの一つ「御所ダム」を囲んだ広域公園。湖畔には乗り物広場、尾入野湿性園地、ファミリーランドなど遊びが満載。さらに湖上でもカヌーやウインドサーフィンなどが盛んに行われています。毎年7月の最終日曜日の御所湖祭りでは豪華な花火が打ち上げられています。

盛岡城跡公園

不来方(こずかた)城と呼ばれる南部氏の居城跡。啄木や賢治もよく訪れたといわれる。日本の都市公園100選の一つである盛岡城跡公園は、盛岡城主の居城跡を利用した公園。園内には、新渡戸稲造や石川啄木、宮沢賢治ら、ゆかりの文人達の歌碑も置かれている。冬期間は、長い歴史を刻む石垣がライトアップされ盛岡雪あかりなどイベント会場となる。また、春には「桜まつり」が開かれる。

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