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高松公園

上田堤が造られたのは、南部26代藩主信直公が三戸より盛岡に移り、盛岡城築城を開始した慶長年間から寛永年間といわれています。当時、上田方面は湿地帯で、池方面からの浸水が町づくりの大きな障害となったため、治水を目的として、上田に三段の堤防が築かれました。この上堤、中堤、下堤のうち、最も大きかった中堤が、現在の高松の池となって残っています。上田堤付近は南部公の鷹狩りの場であり、また、松林の美しさが有名であったことにちなんで「高松の池」と名付けられたと伝えられています。明治22年市制施行と共に公園化が進められ、サクラ以外にもボタン園・アヤメ園・バラ園等を整備し、風致公園として市民に親しまれています。平成元年に「日本さくらの名所100選」に選ばれました。

岩山公園

石川啄木の銅像と歌碑10点,遊園地,スキー場がある。近くの岩山展望は,標高341mの頂上に立っており,盛岡市を一望し,背後には岩手山が見える。姫神山・早池峰山などの峰を連ねる北上山地や,駒が岳などの奥羽山地もよく望まれている。夜景は、日本夜景遺産に選定。

南昌荘

開園:夏4月1日〜11月30日10:00〜17:00 開園:冬12月1日〜3月31日10:00〜16:00 休園:月火祝日と重なった場合は翌日又は翌々日 休園:年末年始(12/

盛岡出身の実業家瀬川安五郎が明治18年に邸宅として建て、築庭も数年かけ完成した盛岡市指定の保護庭園である。明治・大正・昭和・平成と、ほぼ118年の間に所有者が次々変わる中で、ときどきの社会変化を反映し今日の姿に継承されている。

一ノ倉邸

開園:10:00〜15:00 休園:月火 休園:8/10〜20、12/25〜1/15は休

盛岡市指定保護庭園。明治40年頃盛岡市出身の政治家阿部浩(貴族院議員、東京府知事)により建設されました。その後、一の倉氏に譲渡され、平成4年に盛岡市が取得したもので、今も往時の面影をしのばせてくれます。敷地面積は約2600坪もあり、約145坪の木造平屋造、数寄屋風の建物には大小もの和室に加え、畳敷きの玄関や廊下等があり、畳数は140畳に及びます。また、欄間などの材料も吟味されていて、当時のしっかりした造りが伺われます。庭園は明治35年頃、東京から庭師を招いて造ったといわれ、現在は水が枯れていますが3つの中島を持つかなり大きな池が中心にあり、一帯に築山を配した回遊式庭園です。京都から移植されたという樹齢100年以上のモミジ類が主体で、これにアカマツなどの針葉樹が加わり、作庭の意図をうかがい知ることができます。

盛岡市中央公民館御薬園

休園:月 休園:年末年始12月1日から翌年3月31日までは、凍結による転倒事故などの防止のため、一部立ち入り禁止 公開:7:00〜17:00

盛岡市中央公民館のある場所は、江戸前期に盛岡城で使用する薬草を栽培していたため「御薬園」と呼ばれていた。そのあと、御薬園は廃止され、御殿・御茶屋・能舞台などが造営され、奇岩・珍木を集めた大規模な庭園が造られた。裏山の愛宕山には京都高雄の楓を植え、山腹には毘沙門・山王・観音堂を祀り、「下小路御屋敷」として代々藩公の別荘、遊歩地となっていた。江戸後期には藩校「明義堂」の講義所を設置し、藩士の子弟に経学・医学などを講義する教育の場にもなった。明治維新の変革によって、これらの建物・庭園は取り壊され、現在の木造の建物と庭園は、南部伯爵家別邸として明治41年(1908)に新築造園されたものである。明治30年(1955)以降、別邸は盛岡市の公民館施設として使用され、昭和55年中央公民館建設の際、建物の一部を残し増改築、現在に至る。

円光寺

盛岡に生まれ、内閣総理大臣、海軍大臣をつとめた米内光政が眠っている。本堂は市指定保存建築物に指定されている。また、元禄5年(1692年)に植栽された、盛岡市指定天然記念樹の夫婦(めおと)桂樹がある。

報恩寺

報恩寺(ほうおんじ)は広大な座禅堂と五百羅漢(ごひゃくらかん)で藩政時代から有名。石川啄木がまだ盛岡中学の学生だったころ、この北山一帯の風光をこよなく愛し、級友とよく散策したといわれる。(詩集「あこがれ」の中の「落瓦の賦」は報恩寺をうたった。)また、宮沢賢治は盛岡高等農林学校時代に報恩寺で参禅している。五百羅漢は報恩寺の羅漢堂に納められた尊像で、499体が現存。胎内の墨書銘から、1731年(享保16)、報恩寺代17世和尚が、大願主として造立、4年後に完成した。尊像は京都で9人の仏師によって製作され、盛岡に運んだ輸送用の箱は台座として再利用された。五百羅漢の五百という数字は、多数という意味で、それぞれの尊者に名はなく、服装からは印度・西域・支那の僧の風貌・容姿が連想され、マルコ・ポーロやフビライ・ハンの像もある。五百羅漢の現存は全国で50例ほど確認されているが、木彫りで499体が現存し、造立年代、尊像の製作者まで明確に知り得るのは、全国的にもまれな例といえる。昭和41年に盛岡市の文化財に指定された。

大慈寺

寛文13年(1673)の創建。明治17年の大火で焼失したが、平民宰相・原敬の寄進建立で現在に至る。大慈寺の境内には、大正11年東京駅で一青年の凶刃に倒れた原敬が、その遺言により眠っている。また、盛岡ならではの送り盆行事「舟っこ流し」発祥の寺院。大慈寺では「普茶料理」と呼ばれる山草野菜を材料とした素朴な精進料理(中国風の素朴な味は見た目にたいへん美しく、先人から授かった医食同源の知恵を継承)を食することも可能だが、その場合は事前予約(12名以上70名位まで、1人7,000円から)が必要。

龍谷寺

龍谷寺(りゅうこくじ)は明治4年から明治28年まで石川啄木の母方の伯父、葛原対月(かつらはらたいげつ)が住職だったお寺。対月の弟子であった啄木の父、一禎(いってい)と対月の妹であった啄木の母カツが結ばれたのもこの寺だった。対月は早くから和漢の書を修め、易学、茶道に通じていたが、特に和歌に関しては一禎に大きな影響を与えた。少年時代の啄木はしばしばこの寺を訪れ、伯父の対月から詩歌の手ほどきを受けたといわれている。境内には、国の天然記念物「モリオカシダレ」もあり、春になると市民の目を楽しませてくれる。

盛岡八幡宮

南部藩鎮守。八幡宮例大祭では山車の巡行や流鏑馬が有名、境内には米内光政像、田村了咲句碑などがあります。南部氏は、もともと八幡神を氏神と仰ぐ家柄でした。今から約800年ほど昔に南部の藩祖である南部光行公が、居城を三戸から不来方に移す際に、不来方の豪族である日戸氏が代々信仰していた鳩森八幡宮を修復し、この地方の守護神として城内におまつりし、氏神と仰ぎました。城内の八幡社を藩主が篤く信奉することから、城下の民衆も自然に八幡神を崇敬するようになりました。そのため、新たに崇敬の中心となるべき八幡神社の造営が必要とされ、寛文11年に南部29代重信公が、商業の流通を図るために、町の中心部を整え、新八幡宮の造営に着手しました。約1万5千坪の広大な境内地を定めて寛文11年に着手された造営工事は約8ヵ年を要し、延宝8年にご本殿を始め、流鏑馬(やぶさめ)馬場等の主な建物や施設が整いました。新八幡宮造営にあわせて、門前の町づくりにも着手し、その竣工と同時に門前町である八幡町が完成しました。八幡町は、盛岡八幡宮の歴史とともに発展し現在に至っています。

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