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盛岡市アイスアリーナ

営業:10月下旬〜3月下旬※他のスポーツ施設は通年営業 休業:火※イベント開催日も 営業時間:12:00〜19:15月金。(水木は18時まで、土日祝日・年末年始は10時〜18時)<br

盛岡市アイスアリーナ

盛岡市立太田スポーツセンターキャンプ場

営業:4月〜11月 休業日:火毎月第3火曜日 営業時間:9:00〜17:00テニスコートはナイター有り(21時まで)

盛岡市内にあるキャンプ場で,近くには温泉や神社,北方には小岩井農場があります。テニスコートのほか、子供広場、芝生広場ではグランドゴルフ、アーチェリーなどが出来ます。

上の橋擬宝珠

上の橋は、慶長14年(1609)に第27代藩主南部利直(なんぶとしなお)が、盛岡城築城時に中津川に架けました。擬宝珠(ぎぼうしゅ・ぎぼし)を取り付けたのは、1336年(延元元年)後村上天皇より恩賞として京都鴨川橋の擬宝珠の使用が許された故事によると伝えられています。慶長14年のものが8個、慶長16年のものが10個、合計18個が取り付けられています。この擬宝珠は、1945年(昭和20)に軍の金属供出になるところを、実業家でかつ郷土史に造詣の深かった太田孝太郎(1881〜1967)の尽力で、急きょ国の重要美術品に指定され、危うく難を免れました。その擬宝珠も、400年近く経過して腐食が進み、小さな穴にコムクドリが巣をつくり、文化財保護か野鳥保護かとマスコミをにぎわしたこともあります。橋の擬宝珠で記念銘があり、制作年代も古く、残存個数が多いという点で、盛岡市の青銅擬宝珠は国内でもまれな存在です。現在の橋自体は、何回かの流失を繰り返し、昭和になってかけかえられたものです。

原敬墓所

寛文13年(1673)の創建。明治17年の大火で焼失してしまいますが、平民宰相・原敬の寄進建立で現在に至ります。大慈寺の境内には、大正11年東京駅で一青年の凶刃に倒れた原敬が、その遺言により眠っています。原敬(はらたかし通称はらけい)は、1856(安政3)年に盛岡市本宮の南部藩士族の家に次男として生まれ、幼名を健二郎といいました。原の出は士族ですが、次男ということもあって平民となっていました。藩校作人館(仁王小学校の前身)で学び上京、新聞記者などを経て1918(大正7)年に首相となり、歴代の士族出身の首相に代わる、日本初の平民宰相として国民に歓迎されました。日本における政党政治の第一歩を記した人物としても知られています。原の合理主義による開明性は皇太子(当時の)の欧州視察旅行の推進実現に代表されます。しかし原はその開明性のために極右勢力に狙われ、1921年11月、19歳の国鉄職員に東京駅で暗殺されました。原は趣味として俳句をたしなみ、その時々の心境を託したすぐれた作品が数多く残されています。このほか新聞社につとめたときには、原敬の署名で論説に筆をとる一方、多くの著書を残しました。満19歳から65歳に暗殺された当日までの記録「原敬日記」は学術上の貴重な文献となっています。また、大慈寺には原敬の別荘であったものを、没後にあさ婦人から元のまま寄贈された腰越荘があります。原敬が忙しい生活の折にくつろぎをとった懐かしい建物でもあり、室内には西園寺公望の筆による腰越荘の額が今もかけられています。

啄木新婚の家

公開:8:30〜18:00 公開:冬9:00〜16:00 休業:火12月〜3月 休業:年末年始

明治38年5月、処女詩集「あこがれ」を出版した石川啄木は、東京で新婚生活をもつという生活設計を変更して、市内の新山小路(現在の中央通3丁目)に帰り、年来の恋人堀合節子と結婚式を挙げました。しかし、父母と妹が同居する新婚生活は窮迫し、そこでの生活はわずか3週間。同7月に市内の加賀野磧町(現在の加賀野1丁目)に移り住みます。その時の様子は随筆「我が四畳半」に描かれています。かやぶきの屋根など当時と変わったところもありますが、ほぼ当時のまま現存しています。啄木の書や写真なども展示されています。

石川啄木歌碑

「不来方のお城の草に寝ころびて……」岩手公園は啄木が学んだ盛岡中学のすぐ近くに当たり,彼は教室から逃げ出し,ここで文学の夢を結んだ。「病のごと思郷のこころ湧く日なり……」盛岡最初の啄木歌碑であり,啄木の代表的歌集「一握の砂」の中の「煙」の巻頭作品である。26年の短い生涯のうち文学に夢をはせ、恋に目覚め、新婚生活を送り、最も華やいだ青春時代を過ごした盛岡にはゆかりの地が多く、啄木の歌碑が多数点在する。

宮野小提灯句碑

宮野小提灯(みやのこちょうちん)は、戦時中も俳句の灯を絶やさず、生涯を庶民の俳人として貫き通しました。※月待つや独り古城の松のもと

銭掛の松

昔、現在の名須川町のある徳玄寺にみすぼらしい老人が現れ頭だけの如来像を銭三貫文で売っていった。しかしそのお金は翌日外の松の木にそっくり残されていた。後日和尚は頭を背負って胴体を探しにいった。ある店先で胴体のみの仏像をみつけ首をあわせてみるとピッタリとくっつき離れなくなった。和尚は不思議な因縁と思いその胴体を買い取って本堂に祀ったという。それ以来人々は不思議な出来事として参拝に訪れ、銭がかけられていた松を「銭掛の松」と呼ぶようになった。

原敬生家

休業:月祝日の場合翌日、春分の日、年末年始 開館時間:9:00〜17:00入場は16時30分まで

原敬の祖父直記が嘉永3年(1850)に建てたもので、屋敷の5分の4は原敬東京遊学の際売却して学費に充て5分の1が現存するが,今も武家屋敷の面影を残している。昭和52年12月20日に盛岡市歴史的保存建造物に指定された。

報恩寺五百羅漢

見学時間:9:00〜16:00

報恩寺(ほうおんじ)は広大な座禅堂と五百羅漢(ごひゃくらかん)で藩政時代から有名です。石川啄木がまだ盛岡中学の学生だったころ、この北山一帯の風光をこよなく愛し、級友とよく散策したといわれます。詩集「あこがれ」の中の「落瓦の賦」は報恩寺をうたったものです。また、宮沢賢治は盛岡高等農林学校時代に報恩寺で参禅したりしています。五百羅漢は報恩寺の羅漢堂に納められた尊像で、499体が現存しています。これらの像は、胎内の墨書銘から、1731年(享保16)、報恩寺代17世和尚が、大願主として造立、4年後に完成したことが分かっています。尊像は京都で9人の仏師によって製作され、盛岡に運んだ輸送用の箱は台座として再利用されました。五百羅漢の五百という数字は、多数という意味で、それぞれの尊者に名はなく、服装からは印度・西域・支那の僧の風貌・容姿が連想され、マルコ・ポーロやフビライ・ハンの像といわれるようになった像もあります。五百羅漢の現存は全国で50例ほど確認されていますが、木彫りで499体が現存し、造立年代、尊像の製作者まで明確に知り得るのは、全国的にもまれな例といえます。

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