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大正10年、当時としては県内唯一の郷土歴史博物館として設立され、津和野周辺の歴史資料、津和野藩の資料、美術工芸品などを展示しています。吉見、坂崎、亀井の三氏にわたる津和野藩政の歴史を今に伝える豊富な史料に加え、人材育成の源泉となった「養老館」に関する資料、西周をはじめとする多くの先哲の遺品、乙女峠のキリシタン殉教関係資料など、島根県指定文化財を含む数千点を収蔵、展示しています。また、津和野町郷土館は国の登録有形文化財に登録されています。
亀井氏11代にわたって手腕をふるった家老、多胡家の屋敷門。どっしりとした造りは、現在でも威風堂々たるものです。殿町には多胡家、大岡家、牧家の三家老の門が並んでいます。島根県の文化財に指定されています。
夢声は益田で生まれ、4歳まで津和野に住みました。津和野大橋のたもとに「山茶花の雨となりたる別れかな」の句碑があります。これは、幼い頃津和野の家の庭に山茶花が多く植えられていたのを思い出す郷愁の花であり、4歳の時に生別した実母への思慕を読んだ句です。
鴎外の学んだ養老館の庭に建つ。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス……」という遺言の直筆が焼きつけられています。
永太院の裏山にある藩主亀井家歴代の墓所。築地塀に囲まれた墓石が並びます。
森鴎外旧居前庭の一隅に、彼の作品「うた日記」の中の一節が刻まれています。
乙女山の光琳寺には、多くのキリシタン教徒が流人として送り込まれ、殉教した信者は36人にも及びました。マリア聖堂は、この殉教者追悼のため、昭和26年に当時の津和野カトリック教会神父岡崎裕次郎(パウロ・ネーベル)氏の努力によって建立されました。毎年5月3日に開催される乙女峠祭は、岡山、広島、山口、長崎その他各地から大勢の信者による行列ではじまり、聖堂前で野外ミサが行われます。
千姫事件の武将坂崎出羽守の墓は、質素な自然石に「坂井出羽守」の名前で今も墓が残っています。この墓地には、明治の文豪森鴎外・中村吉蔵(「井伊大老の死」などの劇作家)の墓もあります。
「千人塚」と呼ばれる、天保の大飢饉の犠牲者を弔う万霊塔の奥に、ピリヨン神父によって建てられた殉教者の追福碑があります。
裏山を借景として取り入れた池泉回遊式庭園。イロハカエデの植栽は見事で、紅葉のころは三段染めを見ることができます。堀家は、銅山を経営し天領を支配した名家です。