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佐和山城跡

石田三成の城で知られるが、築城の起源は古い。鎌倉時代に近江の守護佐々木定綱が砦を築いたのに始まり、以後、六角・京極・浅井氏とこの地の支配者がかわるたびに城主もかわった。織田信長以後も丹羽長秀・堀秀政・堀尾吉晴と相つぎ、天正18年(1590)三成の入城となる。城も本格的な結構をみるのは三成の時で、その堅固ぶりは「三成に過ぎたるもの」とまで謳われた。だがこの城も関ケ原の戦の2日後に落城。戦後入城の井伊直政により廃城された。今は山腹にわびしく石田群霊碑を残すだけである。◎丹羽長秀(1535-85)尾張児玉生れ。安土桃山期の武将。信長重臣、のち秀吉と結び、若狭一国及び近江二郡を領す。柴田勝家滅亡後、越前一国及び加賀二郡を領し、北庄に居城す。◎堀尾吉晴(1543-1611)尾張生れ。戦国武将。豊臣秀吉に仕え戦功。豊臣家三中老の一人。関ケ原戦後出雲へ入封、広瀬富田城から松江へ移り、松江城と近世城下町を創る。◎石田三成(1560-1600)坂田郡石田生れ。豊臣政権の五奉行の一人。治部少輔、佐和山城一九万四千石の城主。関ケ原で徳川家康と戦って敗れ、京都の六条河原で刑死。◎井伊直政(1561-1602)家康の家臣で徳川四天王の一人。彦根藩井伊家の祖。父は遠州井伊谷の豪族で今川氏の家臣であった。赤備隊として有名。

中山道

中山道は江戸時代の五街道の一つで、本州中部の内陸側を経由する路線である。彦根には、中山道六十九次のうち江戸から六十三番目の宿場町である鳥居本宿と六十四番目の宿場町である高宮宿がある。

中山道摺針峠

中山道は、そのほとんどが山道で、近江路に入っても、伊吹山麓の柏原宿、醒ヶ井宿をたどり、山間の番場宿に至ります。番場宿の山坂を登り、頂の「摺針峠」に着くと、一気に視野は180度となり、西方に湖東平野とその先に琵琶湖が雄大な広がりを見せます。摺針峠の名は、その昔、弘法大使がこの峠を訪れた時、一本の針にするために石で斧を磨く老婆に出会い、自分の修行の未熟さを恥じて修行に励んだとの言い伝えによるものです。

彦根城

休業:無休 公開:8:30〜17:00

国宝に指定された天守のうちの一つ。別名「金亀城」。白亜三層の天守は今もなお気高い雄姿を誇り、城内には国宝の天守のほか、天秤櫓や太鼓門櫓など重要文化財が現存し、桜、新緑、紅葉、雪景色など四季折々の情緒を感じさせる。井伊直政の子直継・直孝が慶長9年(1604)築城に着手、7ケ国12大名の手伝い普請で20年の歳月をかけて完成。以後、井伊氏累代の居城となった。幸い取り壊しを免れたため、三層三重の天守をはじめ多くの遺構を今に残している。堀には琵琶湖の水を巧みに利用し、井伊家で舟遊びなどに使われていた。平山城。別名、金亀城。

旧西郷屋敷長屋門・袖塀・高麗門

彦根城の内堀と中堀との間にあった上級家臣の屋敷地の一画。

旧池田屋敷長屋門

中堀の東部外周路に沿って並ぶ旧武家屋敷地の一画。

旧魚屋町

彦根市には、彦根三十五万石(まんごく)の住時を偲ばせる古い町並みが、比較的よく残っています。白壁に紅殻格子(べんがらごうし)、虫篭窓(むしごまど)、二階の低い建物が通りに面して続いています。本町二丁目から三丁目を当時上魚屋町、城町一丁目を下魚屋町と呼び、約400mの間に40軒近い魚屋が軒を並べていたといわれます。本町二丁目には現在でも通りに面して井戸を残している家が数軒あります。城町にはこの界隈きっての大問屋納屋七(おおどんやななしち)があり、重厚な構えの家が残っています。市指定文化財となっている家が数軒あります。

夢京橋キャッスルロード

定休日:不定期各店舗によって異なる。

本町再開発事業の一環で江戸時代の城下の町並みを再現している。建物を白壁・いぶし瓦・格子戸などモノトーンの世界に統一し、江戸期の風情ただよう新名所となっている。

中山道鳥居本宿

中山道六十九次の内、江戸から六十三番目の宿場。名産は3つの赤いもの。旅の必需品だった胃腸薬の赤玉神教丸、天候の荒れやすい木會へ向かう旅人が買い求めた赤い雨合羽、彦根へ出荷された西瓜です。明治以降は旅人の姿が無くなり、近郊農村としての道を歩んできました。その為、宿場の面影のある町並みが今も残っています。

彦根城の桜

旧彦根藩主井伊家35万石の居城であった彦根城。琵琶湖に臨み、内濠・中濠が今も完全な形で残っている美しい城。そしてこの彦根城のご自慢は、何といってもサクラ。ソメイヨシノをはじめとする8種類のサクラの木1200本がいっせいに咲く様は、実に見事。バックの琵琶湖にとけ込んで、いかにも春爛漫の風情。

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