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美濃の守護職斎藤妙椿の弟。1498年に亡くなり、その墓は二ツ木荘の代官職を勤めた利藤と深い関係のあった明台寺の境内にある。
頼山陽と親交のあった沢井儀左衛門(長愼)は、父の墓銘を依頼し銘文を記す。
豊臣秀吉の「墨俣の一夜城」として有名な城址である。現在この城址に、平成3年、純金の鯱を配した4層6階建の城郭天守型の歴史資料館がある。また、桜の名所、犀川堤と一夜城址公園とは太閤出世橋で結ばれている。
諸大名をはじめ高貴の方々の宿泊所の跡。慶長5年、伊達政宗が宿泊したので、伊達様御本陣とも言われた。本陣は代々澤井家がつとめた。
豊臣秀吉の「墨俣の一夜城」として有名な城址である。秀吉が城主となり、織田信長はこの城を拠点として稲葉山城を攻め落とし、美濃を制覇した。現在この城址に平成3年純金の鯱を配した墨俣一夜城を築城し、歴史資料館として利用している。
鎌倉時代に鎌倉と京都を結ぶ街道として整備され、東西交通の重要な幹線であった。歌人として有名な西行法師の歌や阿陀仏の十六夜日記など多くの和歌や紀行文に墨俣が記されている。義経の後をおってきた浄瑠璃姫を諭した猿が現れたといわれる洞穴、猿岩。姫が休んだとされる浄瑠璃姫腰掛岩、聖徳太子が命名したといわれる小渡井の枡井戸などが残る。
慶長7年、東海道と中山道を結ぶ脇街道として整備された。美濃路には六つの宿駅が設けられ、墨俣宿もそのひとつ。宿駅には、本陣・脇本陣・問屋がおかれ、琉球使節や朝鮮通信使の通行をはじめ、多くの人馬の往来で賑わった。
古くから低湿地帯では生命財産を守るため、洪水の時の避難場所として、母屋とは別に更に一段高く盛土や石垣を積み上げその上に建てた家や蔵。
墨俣宿における脇本陣は徳川初期よりはじまり、代々安藤家(一時加野家)がつとめた。明治末期、この脇本陣にあった門を寺町本正寺山門として移築し今に残る。
本通り(旧美濃路)から一歩入ったところに古い寺い寺院が6ケ寺集っている。各寺院には、寺宝文化財が多い。