清浦記念館
熊本県山鹿市鹿本町来民999-1
本で初めての内閣総理大臣となった、山鹿市鹿本町出身の清浦奎吾の偉業を伝える記念館です。清浦伯の生涯を紹介するコーナーや直筆の書状、掛け軸のほか、愛用の品々や写真などが数多く展示されています。山鹿が誇る偉人の歴史をひも解いてみませんか。大正13年、75歳の清浦奎吾は熊本で初めての内閣総理大臣となりました。官界歴50年あって出世栄達の道を極めたのです。身を田舎から興し、苦学力行し藩閥も学閥も姻戚もないところから腕一本で総理大臣になったのです。親の教えの四恩(親、先輩、友、時世の恩をいいます)を忘れず、清廉潔白、高風清節の士としての生涯はまさに立派で、近年の政官の汚濁を聞くにつけ、清浦奎吾の生き方がたいへん尊く思われます。嘉年3年(1850)鹿本町来民の明照寺、大久保了恩の五男に生まれ幼名を普寂(ふじゃく)といいました。12歳の時、熊本市の浄行寺の養子となりましたが、青雲の心にもゆる彼は法燈を継ぐ気になれず来民に帰ります。16歳の時、父母を説得して、日田(大分)の咸宜園の私塾に入門。ここは、広瀬淡窓の塾で、多くの英才を世に出したところです。普寂は苦行を続け都講という塾生最高の地位につき、塾主の代範を勤めるまでになって、在園6年業成って意気揚々とふるさとの土を踏みました。この頃に清浦奎吾と改名しています。23歳の時、彼は志を立てて上京し、知り合いの埼玉県令をたより、埼玉県大教授心得に任ぜられ、風渡野小学校の校長として教育に力を注ぎました。役人として優れていて、どのポストにいても上長に愛せられ、また、じゅうぶんに応える手腕を持ち合わせていました。42歳で貴族院議員勅撰。57歳には、貴族院議員を免ぜられ枢密顧問官となり、73歳の時、枢密院議長になりました。75歳で組閣の大命を拝し、熊本県で初めての内閣総理大臣となっています。