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遠浅で波が穏やかな入り江の砂浜。3つの海水浴場のなかでビーチは一番長く、海の家をはじめ施設は充実しています。
鎌倉の海で最も長いビーチを誇り、夏休み中は大変な賑わい。海の家をはじめ施設は充実しています。
鎌倉七切通のひとつで、鎌倉幕府が物資運搬の要路として仁治3年(1242)に切り拓いた峠道。世界文化遺産登録候補地。
覚園寺と半僧坊と天園に分かれる三差路がある。この三差路から覚園寺までの山一帯に177穴のやぐらが散在している。鎌倉時代の共同墓地で通称、百八やぐらと呼ばれている。
大倉山の中腹にあり、周囲に玉石垣をめぐらしてある。法華堂跡として世界文化遺産登録候補地。
1236(嘉禎2)年、摂家将軍藤原頼経のとき、幕府所在地は宇都宮辻から若宮大路へ移され、幕府滅亡までの98年間、北条氏による執権政治の中心地となった所。また、頼経から守邦親王まで6代にわたる将軍の館がここにあり、親王屋敷とも呼ばれた。
亀ケ谷:鎌倉七切通しの一つで、国指定史跡。急坂なため亀が途中で引き返した、あるいはひっくり返ったため亀返坂と呼ばれるようになり、いつからか亀ヶ谷坂となったという話が伝えられる。仮粧坂:鎌倉七切通しの一つ。名の由来は、平家の武将の首を化粧して首実検したからとか、このあたりに娼家があったとか諸説ある。新田義貞の鎌倉攻めのとき激戦地となった。足元が悪く、滑り易いところもあるので、十分注意して歩きましょう。
鎌倉七切通の一つ。鶴岡八幡宮から建長寺へ通じる山道で、1240(仁治元)年、北条泰時が自身の所領地である山ノ内への便を目的に開いたものである。鎌倉と武蔵を結ぶ要路であり、新田義貞の鎌倉攻めでは大激戦が展開された。明治初期、この山裾に現在の新巨福呂坂が切り開かれると、しだいにすたれ、今では八幡宮側から200mほどで行き止りになっている。
鎌倉に残る唯一の高塚式古墳で、かつて埴輪の破片が見つかったところ。建保元年(1213)、北条義時と戦って敗れた和田義盛一族の戦死者を、この古墳跡に葬ったといわれる。
源頼朝が京都の都大路にならい、鶴岡八幡宮の参詣道路として建設したこの道は、北は鶴岡八幡宮から南は由比ケ浜付近までの延長1・8kmで、その間には3つの鳥居が立つ。国の史跡に指定されている。若宮大路ほぼ中央の「二の鳥居」から八幡宮前の「三の鳥居」までの約500mに左右に石を積み、一段高くした道「段葛(だんかずら)」があり、桜の名所です。