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雷災除けの神をまつり新田義貞の再建といわれる。主祭神は大雷命。
明治20(1887)年に蚕種業者の田島善平の自宅内に建てた「美似(みい)教会島村講義所」を前身とする。明治30(1897)年、信徒数の増加で手狭となり、現在の地に教会堂が建立された。昭和25(1950)年には二階建ての集会室を建て、昭和34年に礼拝堂北荘園に講壇を拡張。教会堂と保育園舎は地域の歴史景観のシンボルとなっている。
本殿周囲に施された彫刻は、境渕名の名工弥勒寺音次郎・音八の作といわれる。毎年7月7日に県内でも珍しい「お川入れ神事」が行われる。
五惇堂は、享和3(1803)年に伊勢崎藩領で最初に開かれた郷学。碑は五惇堂の教育指針を刻んだものであり、現在は「孝経碑」とともに五惇堂の跡地に残っている。
新田一族の今井氏が居住し、後に茂木氏が移り住んだと伝える。広さは1万坪をこえ、近世初期に描かれた「上今居郷屋敷図」に比定できる堀が残るなど、中世館跡の形態をよく残している。早川のふちに位置しており、堀は同川の水を貯水し、堰は水量調節の役目を果たすなど、用水管理の一面を持っていた。
この遺跡の中心は奈良平安時代の寺院跡。回廊状遺構に囲まれた中に、仏殿や塔が建立されていたことがわかり、仏像の破片や上野国分寺創建瓦と同じ瓦、奈良三彩陶器などの遺物も発見された。
この石幢は大国神社西方にあった御手洗池畔から出土したと伝えられ、延徳2(1490)年の紀年銘がある。
幹の太さが2.6m、根回り9.7m、樹高23m、樹齢100年を超え、県内随一の大きさである。4月には淡い黄緑色の小花を咲かせる。現在は県立前橋高等養護学校伊勢崎分校となっている。
国定忠治は国定村の百姓与五左衛門の子として生まれ、博徒で名をあげた。当時伊勢崎、桐生近郊農村は絹織物の勃興期で現金収入も多く博奕が大いに流行していた。忠治にまつわる話も浪曲、講談、映画などでおなじみだが、この天台宗の養寿寺にその墓があって、賭けごとの好きな人が全国から訪れる。それと言うのも忠治の墓石を削って肌身につけていると賭けごとに強くなるといういわれのためで、近年あまり削り欠かれるので金綱をかぶせて保護してある。
小泉稲荷神社は商売繁盛の御利益があると言われ、初詣ではもちろんのこと、毎月1日、15日にもたくさんの参拝者でにぎわいます。この神社の特徴は、拝殿前に信者から奉納された様々な鳥居が三列に約100メートル並んでいることです。また小泉地区に入る道路には県内一の高さ(22.17メートル)誇る大鳥居があります。