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勝栄山能満寺

『村人たちによる建立の鐘楼門』勝栄山能満寺は、釈迦牟尼仏を本尊にまつる日蓮宗の寺院です。安房賀茂村の日運寺と同山一寺で、賀茂村に日運寺を開いた勝栄院日運が後年隠居所として、松崎の地に建てたと伝えられています。延宝8年(1680)に日運寺から独立し、能満寺となりました。石段上にそびえる鐘楼門は、天保9年(1838)に村人たちによって建立されたものです。過去帳によれば、日運は安房里見一門の筆頭正木大膳、すなわち上総大多喜城主である正木久太郎時茂のこと。時茂は日明上人に師事し剃髪し、日運と号したそうです。能満寺境内には、日運・日明の碑もあります。

成等山正覚寺

『禁教の歴史をくぐってきた不受不施派』成等山正覚寺は日蓮宗不受不施派の寺。不受不施派はキリシタンとともに江戸幕府から弾圧されるという受難の歴史を持つ宗派で、寛文5年(1665)から明治9年までのあいだ、表向き寺を持つことができませんでした。このため禁教がとけ公に認められるようになると、本覚山妙光寺(約700年前に日朝により開山された)を買い受け、新たに正覚寺として発足しました。不受不施とは、僧にあっては法華経を信じない者からの布施・供養を受けず、法も施さない。また信者にあっては法華経を信じない僧には布施・供養を施さず、その教えも受けないというもの。正覚寺のある島地区の住民は、幕府の弾圧を受けながらも大半が不受布施の信仰を続けました。家の天井裏などにかくれ部屋をつくり、取りしまりの目を逃れながらここにかくれ集まって教義を語り信仰を確かめあったといいます。

妙印山妙光寺

祖師堂本尊は「肉鬚祖師」といわれる日蓮像。寺宝も多い。妙印山妙光寺は、400〜500の檀家を有し、多古音頭にも歌われる多古町最大の日蓮宗の寺院。弘安中期に日蓮上人の高弟日朝が創建したと伝えられています。妙光寺は多古居射のほか島、唐竹にもありますが、いずれも日朝によるものと伝えられ、これらを下総三妙寺と称します。もともとは、染井原、小井戸の付近にあり、のちに居射に移ったと言われています。多古由来記には、寛永4年(1627)に江戸谷中(現:文京区)の報恩寺の堂を移して寺堂としたそうで、現在の堂は享保14年(1729)の建立と記されています。元禄4年(1691)には水戸光圀が参詣。宝暦4年(1754)になると葵の紋章を使うことを許されました。山門前大題目塔は宝暦9年(1759)、大常夜燈は寛永2年(1849)の建立と、いずれも長い時間を経てきた貴重なものです。昭和35年には大原内の妙見堂から中世、多古地方を支配した千葉氏一族の守護神である妙見像が移されました。兜をいただき、甲冑をつけて刀印を結ぶ勇ましい武装形で、目を大きくこらした形相は力強さを感じさせます。

正東山日本寺

『300年続いた学僧たちの学舎』正東山日本寺は、中山法華経寺(千葉県市川市)の三世日祐上人が元応元年(1319)に開基した日蓮宗の古刹。仏教史上有名な壇林(学校)のある寺として知られ、全国から学僧たちが集まり、この地で学びました。「寺院明細帳」には、天正15年(1587)日圓師が創立し、日蓮宗の僧の学校としては明治5年(1872)まで続き、明治8年(1875)から寺院になったと記されている。280余年の間全国から学僧を集め、常時500人程が在学していたといわれ、東西に隣接する2つの集落に学僧の寮が37棟、境内の教育施設の建物は80棟に及んだという。檀林と呼ばれた教育の場が廃止され、一山として住職が住む明治24年(1891)までの無住職時代にほとんどの施設は失われ、檀林時代の面影を伝える物は次のとおりである。承応2年(1653)建築の経蔵、元禄10年(1697)建築の妙見社、享和3年(1803)建築の鐘楼、本阿弥陀光悦書の偏額の懸る山門。

大炊堤

船越村字堂島から栗山川に沿って、牛尾下郷あたりまで、約2km続いている。佐倉城主土井大炊頭利勝【在城期間慶弔15年(1610)から寛永10年(1633)まで】が、その時代領地であった船越、牛尾村の水田を栗山川の氾濫から守るために築いたもので、土井氏の職名を冠した名になっている。現在は、近年に造られた堤防に平行して走る農道に見えるが、両側に有志によって桜が植えられ、十八丁堤とも呼ばれた町内随一の桜が、昔通りに蘇る日も夢ではないと思える。

野馬よけの土手

旧馬牧の遺構で、この築堤によって野馬の逃散を防ぎ、隣接農地の産物を野馬の食害から守ったものである。佐倉七牧といわれた馬牧は、北総台地のほとんどを占めていた。ちなみに、ここは取香牧と呼ばれた地域である。

並木城跡

現在では城域を明確にすることはできない。この城の存在を証明する文書としては、建武3年(1336)千葉一族の争いで、千葉胤貞(千葉城主)軍が攻め寄せた状況を「金沢文庫文書」が記している。この他に康正元年(1455)、文明10年(1478)、明応2年(1493)、天正10年(1582)と幾度かの攻防があったとされているが、築城の時代や守将の名前も共に明らかにするものは発見されていない。

玉造城跡

応安の頃、(1368〜1371)から野平伊賀守常信が守っていたと伝えられ、城の絵図も残っている。天正16年(1588)小田原城落城により、小田原方であった当時の城主野平常義は僧籍に入り、家族は帰農する。そして城は開放されて、円教山得成寺が創られたが、明治12年(1879)火災により失われ、再建されることはなかった。

松平家陣屋跡

初代は多古藩主松平家の兄で、関宿四万石の城主であった。数代後、種々の事業から六千石の旗本になった。そして天保13年(1842)因幡守康盛の代に、ここに陣屋を造った。その規模は、長屋門、家臣の住家、若御殿等であったが、明治元年(1868)になると全てが解体され、土地は農地となって、今では当時を偲ぶすべもない。

多古藩陣屋跡

現在は陣屋敷地の全域が小学校敷地になっており、陣屋時代を想像することはできない。元は陣屋下と呼ばれた現在の県道沿いに、表門、中門、裏門と門が並び、堀には朱塗りの橋が架かっていたという。この一部に石垣が残りわずかに面影を残している。天正18年(1590)徳川家の江戸入城と同時に保科氏の領地となり、やがて寛永12年(1635)松平家に替り、明治まで続いた一万二千石の行政の中心地である。

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