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城壁型の堤防

中津城に面した中津川に造られたもので,お城の岩垣に似せた“城壁”の上に銃眼付きの白壁が張りめぐらされている。

三口井堰

人柱の伝説で有名な三口井堰は、規模の宏壮なる点で近隣にその比をみない。中津市、沖代平野の潅漑用水の取入口で山国川の清流を満々とたたえている。人柱の伝説はその昔、この井堰は人柱を立てれば崩壊を防ぐことができたとの伝えにより、地元のお鶴、市太郎母子が願い出て井堰の人柱となった哀史。

福澤諭吉旧居

開館:9:00〜17:00 休館:12月31日

福沢記念館に隣接。初中少年時代(1才6ヶ月から19才まで)をすごした住宅で母屋は木造茅葺平家造現在の大阪大学構内、当時の中津藩蔵屋敷で生れる。近代日本を代表する先覚者の一人。独立自尊・自由平等の思想を説く。尚早論者を押えて国会開設運動を展開。慶応義塾大学を開く。『学問のすすめ』『文明論之概略』は有名。

中津公園

公開:自由 休業:年中無休

中津城横前中心の公園

自性寺

公開:9:00〜17:00

自性寺は奥平藩歴代の菩提寺です。藩祖信昌公が、三河新城にいた時、金剛山万松寺と称して創建。その後いく度か藩の転封に従い、移り、1717年(享保2年)、6代藩主昌成公の時、中津に転封。1745年(延享2年)、自性寺と改称します。12世提洲和尚が、1764年(宝暦14年)、住職として赴任の途中、京より、池大雅夫妻を伴い、自性寺にきました。池大雅は、九州の美しい景色にふれて、自由に筆をふるいました。これらの書画は1778年(安永7年)、書院の襖に貼られます。後、十代藩主昌高公が「大雅堂」と染筆、扁額を掲げてから、この書院を「大雅堂」と呼ぶようになりました。大雅堂には池大雅の書画46点が残っています。団体の場合予約要。

城井神社

黒田孝高に謀殺された豊前の豪族宇都宮鎮房をまつる。

薦神社

宇佐神宮の元宮といわれている。朱塗の建物が華麗。神門は国指定重要文化財。

合元寺(赤壁寺)

通称「赤壁」といわれるこの寺は、天正15年(1587年)、黒田官兵衛に従って姫路から中津に移り住んだ浄土宗西山派、開山空誉上人が開基したと伝えられています。その後、天正17年(1589年)、黒田氏が前領主の宇都宮鎮房を謀略をもちいて中津城内で暗殺した際、その従臣らがこの寺を拠点として奮戦し最後を遂げ、その時の血が何度塗り替えても染み出てくることから、ついに赤色に塗り替えられるようになった、というのがこの赤壁の由来となっています。当時の激戦の様子は、寺の庫裏の柱に残る当時の刀傷からうかがい知れます。また、戦死した鎮房の家臣は合葬し寺内の延命地蔵菩薩堂に祀りたてられています。

中津城

開館:9:00〜17:00休館日なし

城下町中津のシンボルとなっている中津城は、天正15年(1587)黒田孝高(如水)の築城に始まり、以後、細川、小笠原、奥平と城主が変わり、明治4年(1871)に廃藩を迎えた。現在の城は昭和39年5月に旧藩主の子孫奥平家十七代の当主、昌信氏によって再建されたもので、高さ23m(5階)5層の天守閣が新改され2階2層の櫓からなっている。天守閣は資料館として公開され、衣装、刀剣、陣道具、古文書など、奥平家所蔵の宝物が展示されている。城全体の地形が扇を開けた形に似ているので扇城とかいわれ満潮時は海水が内堀に入るので海城ともいわれた。◎黒田孝高(1546-1604)播磨生れ。安土桃山時代の武将。天正の初めより信長に属し、秀吉の参謀として各地に転戦、功あり。天正15年豊前6郡の地を賜う。17年退隠、如水と号す。◎細川忠興(1563-1645)(三斎)。丹後宮津より豊前中津に移封。子忠利に譲り退隠。忠利と共に肥後入国。和歌・蹴鞠・有職に通じ、茶道は利久の弟子。◎奥平昌高(1775-1855)五代中津藩主。寛政2年藩学「進修館」を創立。『蘭語訳選』や『中津バスタード辞書』など、いわゆる「中津辞書」を出版、洋学の発展に貢献。

ダイハツ九州(株)工場見学

見学:月火水木金8:30〜10:00※ただし、工場の休日および工場内整備の日は除きます。 見学:月火水木金9:15〜10:45※ただし、工場の休日および工場内整備の日は除きます。 見学

最新鋭の工場で、年間25万台の自動車を生み出します。見学コース:自動車の組立ライン及び検査ライン(一部ボデーライン)見学時間:会社の概要説明約15分、会社紹介ビデオ約15分、工場見学約60分見学人数:一般(中・高・大・専門学校、企業、団体、個人)…1回100名以内(バス3台まで)小学校の社会科見学…1回150名以内(4クラスまで)

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