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石の宝殿(石宝殿古墳)

寝屋川市東端、生駒山に続く丘陵には多くの古墳が残り、そのうちこの特殊な横口式石槨(せっかく)をもつ古墳が「石の宝殿」、または「石宝殿古墳」として知られている。上面を平坦に加工した底石(下石)の上に、埋葬部分をくり抜いた蓋石が重ねられている。その大きさは、直径3m/高さ1.5m。内部は幅0.9m/高さ0.8m/奥行き2.2m/入口部分は幅0.5mと狭い。横口式石槨は大阪府に約20例あるが、全て石川流域に集中しており、石の宝殿だけが他より離れ、形式的にも明日香村の鬼の厠(かわや)・鬼の俎(まないた)と同じく、非常に特異なもの。日本に仏教文化が伝わったことを受けて、ここに死者を火葬した後、骨を容器に入れて納めたと推定されている。『河内名所図会』によれば、このそばから、金銅製の骨壷が見出されたという。前面左に、「天岩戸大日如来」と刻んだ元禄9年(1696)の石碑がある。天照大神の岩戸隠れにちなみ、神仏習合の信仰を表すものと言われている。

伝王仁墓

「なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな(古今和歌集)」と詠んだ王仁(わに)の墓と伝えられる。大阪府の指定史跡。王仁は5世紀初め頃、応神天皇の時代に朝鮮半島の百済から渡来し、応神天皇の皇子である莵道稚朗子(うじのわけいらつこ)に学問を教えた学者で、日本に論語と千字文をもたらしたともいわれる伝説の人物。日本書紀では王仁、古事記では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝王仁墓の南側には、朱塗りの柱と瓦が百済の雰囲気を漂わせる韓国風の休憩所が設けられていて、夏から秋にかけて、韓国の国花・ムクゲが美しい。近年は、韓国から観光や修学旅行で訪れる人も多い。

桜井駅跡

営業:見学自由

『青葉茂れる桜井の』で歌われる桜井駅跡は、国指定の史跡。南北朝時代の名将、楠木正成と息子・正行の決別の地として知られている。現在は木々あふれる公園として整備されていて、「桜井駅跡」や「楠公父子決別之所」などいくつかの石碑が立てられている。ここで言う“駅”とは、馬など旅に必要なものをそろえた施設(駅家=うまや)のこと。この地は古来、京都と大阪を結ぶ交通の要所だった。『太平記』によると、1336年、足利尊氏を討つために湊川に向かう楠木正成が、この「桜井駅」で11歳になる息子・正行に「我亡き後も、一族と共に朝廷(ここでは南朝のこと)のために戦うのが忠義」との訓戒を与え、河内に帰らせたと伝えられている。

堀越神社

営業:6:00〜17:00

第33代・推古天皇の時代、四天王寺建立と同時期に、聖徳太子が叔父の第32代・崇峻(すしゅん)天皇を偲んで茶臼山に建立したと伝えられ、四天王寺七宮のひとつに数えられる神社。古くから明治中期まで境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、「堀越」という名がつけられたという。境内には、かつて八軒家の渡辺の津にあった熊野第一王子の窪津王子が祀られている。交通量の多い谷町筋に面しているが、樹齢数百年におよぶ樹木などによって、境内は閑静な雰囲気を保持している。大阪では、「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」との言い伝えがあり、古くから親しまれている。

大江橋

大阪市庁舎北側を流れる、堂島川に架かる橋。もとは元禄年間(1688〜1703)、堂島市街地の開発によって新しく架けられた堂島川五橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋・船津橋)のひとつ。橋名は、万葉歌人の歌にも詠まれた地名に由来したという。明治43年(1910)、市電の開通に合わせて鉄橋に架け替えられた。現在の橋は第1次都市計画事業によって、南側の淀屋橋とともに改修工事がなされたものだが、大正時代当時としては、橋の改修としては珍しくデザインコンペが実施され、全国から意匠設計の応募があったもの。設計担当者に決まったのは大谷龍雄。橋長81.5m、幅員37.0m、上路充腹式、鉄骨鉄筋コンクリート造で4径間アーチ橋に、手摺りつきだった。昭和5年(1930)に着工、同10年(1935)に完成。その後、2度の改修が行われたが、ほぼ竣工当時の姿のままだという。橋の名板は関一市長の筆によるもの。

天保山渡船場

営業:6:15〜19:50、日祝は6:30〜19:50

航行距離約400m、乗船時間は約3分だ。かつて多くの川や堀があり、水の都と呼ばれた大阪には、人々が行き来するための市営の渡船場が市内にいくつもあったが、時代とともに減少し、現在は8ヶ所を残すのみ。そのひとつである天保山渡船場は明治38年(1905)に開設。当初は天保山、桜島、築港大桟橋の間を三角運航し、木津川、尻無川方面にも運航区域を広げるほど繁栄したが、大正11年(1922)に天保山桟橋が完成すると利用者が減少。昭和元年に現在のルートに縮小した。現在は生活路線として利用する地元の人たちや、天保山からユニバーサル・スタジオ・ジャパンへ行く若者が利用する。運賃無料、海から眺めるベイエリアも味わいがある。

宗右衛門町(そうえもんちょう)

営業:店舗により異なる 定休日:店舗により異なる

静かな昼間と打って変わり、夜には色鮮やかなネオンが灯り出しお店が開く宗右衛門町は、高級クラブや有名料理屋から、最近ではリーズナブルなお値段で楽しめるお店で賑わっている。

野崎観音(慈眼寺)

営業:本堂は9:00〜16:00

飯盛山の山麓にあり、「野崎観音さん」と親しまれてきた慈眼寺。行基が彫ったと言われる十一面観世音菩薩を本尊とする。永禄8年(1565)の三好・松永の兵により寺は全焼し、本尊の観音像だけが残った。元和2年(1616)青厳和尚が寺を復興、元禄宝永ごろ(1688〜1710)、野崎参りが盛んになると共に、お寺も繁栄。「野崎参り」とは、春秋に無縁経の法会に参拝することだが、舟で行く人と陸で行く人とで罵り合って競り勝てば一年の幸を得られたという俗信があり、たいへん賑わっていたと、近松門左衛門の「女殺油地獄」や、近松半二の「新版歌祭文」、落語の「のざきまいり」、東海林太郎の「野崎小唄」、お染久松の恋物語などからも伝わっている。現在も、毎年5月1〜10日の期間中には、JR学研都市線野崎駅前より野崎観音までの参道には300軒ほどの露店が建ち並び20万人を越える人出で賑わう。寺宝として釈迦涅槃図を蔵しており、境内には、松尾芭蕉の句碑などもある。

高槻市立歴史民俗資料館

営業:10:00〜17:00(入館は16:30まで) 定休日:月曜日・祝日の翌日・12月28日〜1月3日

資料館は城跡公園内にあります。建物は江戸時代中期の商家(笹井家住宅)を移築復元したもの。昭和47年9月に高槻市指定文化財の建造物第1号に指定されました。資料館は展示館と収蔵庫から構成されており、収蔵品の中でも民俗文化財(日常生活の中で、その地域の特徴をもつ風俗・習慣・言語・芸能など:無形のものと、生活用具・生産用具などの民具:有形のもの)を中心とした展示を行なっています。

堺市茶室伸庵

営業:9:30〜16:30※申込みは2ヶ月前より受付 休業:毎週月曜日・祝日の翌日・年末年始

わび茶を大成させた千利休は大永2年(1522)、堺の豪商魚屋(ととや)の長男として生まれた。その利休の屋敷跡など、多くのゆかりの地が残る堺で、茶道の偉人を偲びつつ一服味わいたいなら、ここ堺市茶室「伸庵」へ。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に隣接する緑豊かな大仙公園の一角、明治時代の数寄屋普請の名匠・仰木魯堂設計による数奇屋造り茶室は昭和4年に建てられたものだ。建物は風雅な二階建てで、立礼席は約25席。多人数の茶事を催すこともできる。隣の「黄梅庵」(おうばいあん)は、茶道三宗匠の一人で、同じく堺出身の今井宗久ゆかりのもの。ともに国の登録有形文化財となっている。ふたつの茶室を繋ぐように整備された庭は見学無料で、国指定重要文化財の旧浄土寺九重塔もある。

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