観光地検索

全日本の観光地へ

1203 件の 60 ページ目 (0.001 秒)

泉光寺

初代岸和田城主、岡部美濃守宣勝が老いてこの土生の地に別荘を建立し、隠居屋敷とした。後に遺言により、亡骸をここに葬り、かつ、邸を寺とし代々の岡部家菩提所とした。境内の広さは約4,000坪。初代宣勝をはじめ、代々13基の五輪塔が整然と並んでいる。この累代の墓は市の史跡にも指定されている。

牛滝山大威徳寺

和歌山県との県境に近い牛滝山の山間にあり、役行者が開創したとされる天台宗の古刹。別名、牛滝寺。古くから葛城修験道の一霊場でもあった。遊歩道を歩くと3つの滝があらわれる。そのうち「三の滝」は、かつて比叡山の学僧・恵亮が修行をし、この滝から大威徳明王が牛に乗って現れたと伝えられ、恵亮が明王の像を彫り本尊として安置したのが寺名の由来。後に弘法大師もこの地で修行、多宝塔などを建立したそうだ。境内にある朱色が鮮やかな多宝塔は、国の重要文化財。また秋には、室町様式の回遊式庭園や岸和田市の天然記念物に指定されている山門前のかえでなど、紅葉と寺の建物との調和が美しく、「府の名勝」としても指定されている。毎年11月には「牛滝山もみじまつり」が行われ、写真撮影会や、地酒や野菜のてんぷらの販売などが行われる。

久米田寺

JR阪和線久米田駅下車徒歩10分。行基49院のひとつとして天平10年(738)に建立された久米田寺。奈良時代、干魃に苦しむ久米田(現岸和田市池尻町、岡山町界隈)農民のために行基が人々を組織し、14年かけて周囲2.7キロ、面積は甲子園の31倍に当たる45.6haの灌漑用水池・久米田池をつくり、その隣に池の管理・改修を行う「臥竜山隆池院」を建てたのが始まりとされている。永禄5年(1562)、三好義賢(よしかた)が、紀州から攻めてきた畠山高政(たかまさ)とここで戦って戦死し、諸堂塔もこの時に焼失したが、江戸中期に再建され、朱色が鮮やかな多宝塔をはじめ、重厚な金堂や行基が自ら彫ったとされる千手観世音を安置する観音堂などその姿を今に伝えている。また、平安絵画の星曼荼羅図(ほしまんだらず)や楠家文書など7点の国の重要文化財も所蔵。春の桜や4月21日の「おだいっさん」とよばれる縁日は、多くの人でにぎわう。秋祭りは「行基参り」といわれ、境内に10基余りのだんじりが曳き回される。

岸城神社

岸和田城天守閣の東側に鎮座し、城の鎮守の神であり、岸和田だんじり祭の聖なる場でもある、岸城神社。もともとは正平17年(1361)、地元の農民たちが五穀豊穣を祈って神明社を築いたのが始まりとされるが、約620年前に京都の八坂神社から素戔鳴尊(すさのうのみこと)を勧請(かんじょう)してからは、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれ、地元の守り神として繁栄。後に慶長年間に秀吉の家臣・小出秀政が岸和田城を大改修するのを機に八幡大神を合祀、以来代々の城主や住民にも厚く信仰されてきた。明治維新で氏子が広範囲になり、「岸城神社」に改名。明治29年(1896)に、現在の広大な社殿が奉建された。城が千亀利城(ちきりじょう)と呼ばれていたのにちなんで、縁結びの神(ちぎりのかみ)として参詣者が多い。有名な岸和田だんじリ祭はこの社の例祭。

摩湯山古墳

墳丘の長軸は約200メートル、前方部幅約100メートル、後円部径約127メートル。前方部はその長さの割に、開き具合が大きくない形式に属している。周辺の宅地造成が進んでその保存が危惧されていたが、1956年に国の史跡に指定された。現在は墳丘全体が山林となっており、外形実測はもとより墳丘内への立ち入りはできない。

南海本線・蛸地蔵駅

定休日:なし

南海本線ではがほとんど残っていない、非常に珍しい大正時代の駅舎。天窓のステンドグラスは、戦国時代、岸和田城と雑賀衆の合戦で、蛸にまたがった法師と蛸の群れが、敵を退散させた「蛸地蔵物語」をモチーフにしている。

自泉会館

営業:9:00〜22:00施設利用申請の受付は17:00まで 休業:月曜日(祝日と重なる場合は開館し、翌日休館)、年末年始(12/29〜1/5)、敬老の日の前日・前々日、3月の第2火曜日<br

自泉会館は1932年(昭和7)、岸和田紡績の2代目社長、寺田甚吉が設立し、会社の社交場などに利用していたものを、1943年(昭和18)岸和田市に寄贈したものだ。関西建築界の草分け建築家、渡辺節の近世スパニッシュ作品で、1997年(平成9)に登録文化財に指定されている。現在はギャラリーも付設され、文化活動の場として利用されている。ホールでは年数回ピアノやオルガンのコンサートが開かれる。ホールと会議室、展示室は市の内外を問わず、文化活動であれば誰でも利用できるのでお問い合わせを。

がんこ岸和田五風荘

営業:11:00〜22:00(ラストオーダー21:30)

旧岸和田城主岡部氏の新御茶屋跡で、明治維新後、寺田利吉氏が1929年から10年の歳月をかけて造り、1950年、五風荘と名前を改めた邸宅。凛然と佇む建物は、立派な主屋と3つの茶室がある、風情豊かな回遊式庭園。茶室は木津宗匠師の設計によるものとされ、特に山亭は形の美しい自然石を礎石とし、その上に茶室が建てられている。日本建築の粋を集めた主屋の屋敷からは見事な庭園が見渡せ、落ち着き感のある池や優美な造形を見せる山亭、雪見灯篭など、その配置の妙は不思議と見る人の気持ちを和ませます。

和泉葛城山ブナ林

ここのブナ林は、暖かく、標高の低いところに生育していることからとても貴重。このため1923年(大正12年)から国の天然記念物に指定されている。しかし現在、温暖化や過剰な林道設営などにより若木の生育が減少しているとった現象が起きているため、天然記念物部分のブナ林の保全活動が市民と自治体の協力で進められている。

岸和田城

営業:10:00〜17:00(入館は16:00まで) 定休日:毎週月曜日(祝日・休日の場合は開館)年末年始(12/29〜1/3)※お城まつり期間中(4/1〜4/15)開館

元弘4年(1334)、楠木正成の一族・和田高家が今の城よりも東側の野田町に築いたのが始まりとされる岸和田城。本丸と二の丸を連ねた形が、ちぎりに似ているため、千亀利城(ちきり城)とも呼ばれている(「ちきり」とは機(はた)のたて糸をまく器具のこと)。天正13年(1585)には、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅により、秀吉の伯父・小出秀政が城主になり、本丸を五層の天守に大改修。以降、岸和田城主は、小出氏3代、元和5年(1619)からは松平(松井)康重・康映、寛永17年(1640)からは岡部氏がつとめていた。岡部宜勝(のぶかつ)は、さらに城を大改築し近世城郭を築き上げ、岡部氏は明治維新まで13代居城していた。文政10年(1827)に天守閣が落雷で焼失し、維新期には櫓・門など城郭施設を城主が自ら破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外残っていない。現在の天守閣は、昭和29年(1954)に建造された3層3階の模擬天守で、内部には資料展示室と望楼など。ほかに本丸には「八陣の庭」と言われている庭園がある。

旅行情報