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ザビエル公園

阪神高速15号堺線堺出口からすぐのところにある、大阪で唯一の路面電車・阪堺電気軌道の花田口駅前にある緑溢れる公園。天文19年(1550)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが堺を訪れた際、堺の豪商・日比屋了慶(ひびやりょうけい)が彼を手厚くもてなしたという。それにちなんで、昭和24年(1949)、ザビエル来航400年を記念して了慶の屋敷跡につくられた公園を「ザビエル公園」と命名。園内には南国情緒あふれるフェニックスの大木が繁る一方、春は桜、秋は紅葉が美しく、市民の憩いのスポットだ。毎年10月の第3土日に開催される「堺まつり」では、堺の表千家、裏千家、武者小路千家が一堂に会した「利休のふるさと・堺大茶会」の会場のひとつになっている。

大仙公園・日本庭園

営業:9:30〜17:00(入園は16:30まで)11〜3月9:30〜16:30(入園は16:00まで) 定休日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、祝日の翌日、年末年始(12/29〜1/5)

大仙公園内に、1989年の「市制100周年」を記念してつくられた、総面積26,000平方メートルの日本庭園。堺は中世の頃、海外交易の拠点として栄え、さまざまな技術や文化が上陸してきたところ、日本庭園の源流となった庭園技術も、この時に伝わったといわれている。大仙公園の庭園は、伝統的な日本庭園の作庭技術を駆使しながら、築山林泉廻遊式庭園様式でまとめられており、南側台地の「桃源台」と、南から北へ流れる「石津渓」、北側低地の3つの風景で構成されている。檜づくりの門をくぐると、中世堺の豪商たちの集会所「納屋衆」を模した休憩所、孫悟空ゆかりの中国花果山の石を刻んだ曲水が楽しめる「流杯亭」、野点や盆栽展を楽しめる「桃源台」などがあり、渓流沿いに歩めば「傘亭」に至る。堺の文化風土を感じつつ、四季折々の花やみどりの移ろいを楽しもう。

浜寺公園ばら庭園

営業:10:00〜17:00(入園は16:00まで)※21/12/15〜22/3/16まで閉園3/17〜通常開園 定休日:火曜日(祝日の場合は翌日)

南海電鉄「浜寺公園」駅または阪堺電気軌道「浜寺駅前」駅を降りて徒歩すぐ。浜寺公園は明治6年(1873)につくられた大阪最古の府営公園のひとつ。広大な園内には約5500本の松が繁り、日本の名松100選(社団法人・日本の松の緑を守る会選定)に選ばれている。敷地約2.5haのばら庭園は、大阪府の「花ふる大阪事業」として平成5年(1990)に完成したもので、和風の回遊式庭園に見立てた「湖沼・水路の景」「里の景」「山間の景」など5つのゾーンと遊歩道、ヨーロッパの庭園を思わせる「まちの景」などが広がる味わいあるつくり。日本に昔から自生するノイバラやツクシイバラ、ハマナスをはじめ、約250種6,500株のバラが春から初冬まで咲き誇る。例年3月から12月まで開園。入園無料。ボランティアグループによるバラのガイドツアーなどもある。

覚応寺

伊予の豪族の河野通有の子通元が本願寺覚如上人に帰依して「覚応」と改名し、九州の霧島山麓に一宇を建立し「覚応坊」としたのが始まり。1325年(正中2年)。そののち、数代を経て堺に移転した。先々代の住職、河野鉄南氏は与謝野鉄幹と晶子をひきあわせた人物だ。ここは晶子にとって特に縁の深かった寺院で、毎年5月29日の晶子命日には「白桜忌」が行われる。

南宗寺

営業:9:00〜16:00

弘治3年(1557)、和泉・河内の代官として堺を支配した三好長慶(みよしながよし)が父・元長の菩提を弔うため、宿院の南方に創建した臨済宗大徳寺派の寺。大阪夏の陣で焼失、元和3年(1617)住職の沢庵和尚により、現在地の南旅篭町に再建され、現在に至っている。承応2年(1653)建立の仏殿、正保4年(1647)建立の山門(甘露門)、江戸時代初期建立の唐門は、国の重要文化財。本尊として釈迦牟尼仏を安置。茶道の大成者、千利休や武野紹鴎(たけのじょうおう)らがここで修行したといわれ、昭和35年(1960)7月に再建された利休好みのニ畳台目の茶室「実相庵」(じっそうあん)や、遺愛の手水鉢などが残っている。また、江戸時代初期に作庭されたと思われる、枯山水の庭園がたいへん美しい(国指定名勝)。

法道寺

天智9年(670)に創建され、天竺(現インド)から来た法道上人が開山したと伝えられる法道寺。創建当時は、鉢峰山閑谷院長福寺(はちがみねさんかんこくいんちょうふくじ)と号し、子院を49も持つ大寺院だった。「鉢ヶ峯」の地名の由来は、法道上人が大切にしていた鉢を、このあたりの山に埋めたということから名づけられたもので、寺の名称「法道寺」は、徳川の8代将軍吉宗の嫡男が「長福丸」と名づけられたので、「長福寺」から改名したといわれている。境内にある多宝塔は、南北朝時代の中頃に建てられた建物で、上層に施された鯱(シャチ)の彫物や亀腹の上に蛙股を配置することなどは、大変珍しいとされる。鎌倉時代に建てられた食堂(じきどう)は、僧侶が法会の際に食事などを行った場所で、傾きがゆるやかな屋根や柱上の簡素な組みものなどは、奈良時代以降に日本で展開した建築様式の特徴をもつ。現存する食堂としては、全国的にもまれで大変貴重なもの。ともに、国の重要文化財。ほかに、寺宝も多くあるそうだ。

祥雲寺

寛永年間(1624〜1643)に堺の豪商・谷正安(たにしょうあん)が創建、沢庵宗彭(たくあんそうほう)が開山した臨済宗大徳寺派の寺。明治末期まで、境内に「五葉松」があったことから、「松の寺」とも呼ばれていた。寺は第二次世界大戦で焼失し、昔の面影はないが、谷正安の依頼によって描かれた67才時の沢庵肖像(国の重要文化財)や「釈迦二声聞像」(しゃかにせいしょうもんぞう:堺の重要文化財)などが残っている。また、境内には、大阪府指定の名勝のひとつである庭園が。庭全体を平らとする平庭式の枯山水様式の庭園で、土塀寄りに石組を配置し、手前に広い白砂空間をとるという江戸時代の様式がその特徴だとか。空襲に焼け残った石組をもとに整備されたこの庭園からは、作庭当時の姿を偲ぶことができる。

家原寺

営業:9:00〜17:00 休業:無休

JR阪和線津久野駅下車、徒歩約15分。慶雲元年(704)、奈良時代の名僧行基が父の菩提寺として自らの生家を寺にしたのが始まりとされている名刹。山号の「一乗山」は、人が仏の心を学ぶ聖地、「家」は行基の生家、「原」は母親のお腹をそれぞれ表すもので、行基の活動の原点ともなった寺。この名称が現在の地名にも残っている。本尊は、行基自身の造立による文殊菩薩で、日本で最初に本尊として祀られたことから、「家原の文殊さん」として親しまれ、智恵を授かるお寺として受験生に人気が高い。かつては、受験生がその願いを本堂に書いたことから「落書寺」とも呼ばれているが、現在は祈願を書いたハンカチを本堂に貼り付けている。本堂の壁や柱がハンカチで埋め尽くされる姿は、毎年の風物詩だ。また、1月15日に行われる左義長祭りは「家原のとんど」として、知られている。

妙国寺

営業:9:00〜16:00要予約

宝珠院の向かいに位置する妙国寺は、当時摂津・河内・和泉の三国を支配していた三好豊前守之康から寺地と蘇鉄(ソテツ)の寄進を受け、日蓮宗学僧が永禄5年(1562)に開山した寺。大坂夏の陣で焼失した本堂は、寛永4年(1627)に復興されたが、堺の大空襲で再び灰燼に。また「堺市事件」で、フランス人水兵らを殺害した責任を負って土佐藩士11人が切腹した場所でもある。境内には、創建時に寄進された樹齢1000年を越す蘇鉄が、いまも生き続けている。高さ5m以上、大小120数本の幹枝を数える大木は、国の天然記念物。かつて、織田信長がこの蘇鉄の見事さを気に入り、安土城へ移植させたところ、蘇鉄は毎夜「堺へかえろう、堺へかえろう」と泣いたという。それを聞いた信長は、激怒して幹を切りつけると、蘇鉄は血を流して苦しんだため、元の妙国寺へ返したという伝説がある。

方違神社

崇神天皇8年(西暦前90)12月29日、勅願により創建されたと伝えられる。摂津・河内・和泉の三国の境の「三国山」と呼ばれる地(現:三国ヶ丘)にあり、奈良時代には人馬往来の要衝だった。また平安時代には熊野への参詣者が必ず立ち寄り、旅の安全を祈ったという。どの国にも属さない、方位のない清地として、古くから境内の土や砂が悪い方位を祓う=方災除けの神として信仰を集め、いまも家の新築や転居の際の厄除け祈願に大勢の参拝者が訪れる。出かけなければならない方向が良くない時に、一度別方向に向かってから出かける方違い(かたたがい)の風習によって、お参りする人も多い。毎年5月31日のちまき祭は故事にならい、菰(こも)の葉で包んだちまきが氏子らに配られる。

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