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勝田香月記念碑

歌碑は縦1.8m、横2.7m、厚さ50cmの御影石。中央に作詞者勝田香月の自筆で「出船」の歌詞を刻んだ黒御影石がはめ込まれている。碑の全体に幾重にも重なる波が描かれている見事なもの。台座は白御影石。港口公園内。

江原素六の銅像

郷土の先覚者として江原素六は教育面だけでなく、産業開発にも力を入れ、愛鷹山の開発・植林など、農民のため大いに貢献した。旧宅敷地に明治史料館が建っており、江原素六の業績が展示されている。

吟道之碑

大瀬崎の背後の山腹、青い駿河湾のはるか向こうに悠然とそびえる霊峰富士を眺める丘陵に建っており、年に一度の碑前祭(11月最終日曜日)には、全国及び海外から吟友が集い詩吟朗詠が周囲の山々にこだまする。

大久保治右衛門忠佐の墓

大久保治右衛門は慶長6年(1601年)には中村一氏の弟一栄にかわって、駿河国沼津において2万石を賜り、三枚橋城城主となった。その後剃髪して道喜と号した。慶長18年(1613年)9月27日、77歳で死去。忠佐の嫡子忠兼は同年4月14日、父に先だって15歳で亡くなっていたため、弟彦左衛門忠教を養子に迎えようとしたが、「他社の功績によって得た知行(土地を領有して支配すること)をそのまま受け取るわけにはいかない」と承知しなかったため、家は断絶し慶長19年(1614年)に廃城となった。妙伝寺は山号を光栄山といい、法華宗岡宮光長寺の末寺である。慶長9年(1604年)10月の創建で、開基は日典という。日典は俗名を市川七郎左衛門家吉(元は忠佐の家臣)といった。当時の三枚橋城主大久保忠佐は厚く法華宗に帰依し、自ら当寺を大久保家の菩提寺と定め、慶長9年12月19日、寺領として田畑約750坪を寄進した。当時にはその古文書が残されており、忠佐と妙伝寺の特別な関係を物語っている。三河松平の家臣で勇猛な戦国武将・大久保忠佐が沼津古城最後の城主となった。

阿野全成・時元の墓

阿野全成は幼名今若丸といい源義朝の七男(全成の妻は政子の妹の阿波の局で実朝の乳母)。兄頼朝と共に平氏討伐で功をたて、駿河国阿野庄(現在の原・浮島・愛鷹および片浜の一部)を与えられ、井出に居館をかまえた。頼朝死後、兵をあげたが敗れ下野で処刑された(池禅尾の命乞)。境内には首懸松のモニュメント、客殿玄関には首懸松の輪切りが展示してある。乳乞銀杏も。

首塚

戦国時代沼津は今川・武田・北条の武力接触の要衝として再三にわたり戦乱の場となった。この戦いでたおれた戦士の首を集めて葬ったものです。明治33年5月の暴風雨で松の根本から頭蓋骨が発見され、これを集めて弔ったのがこの碑(明治35年9月、地元の有志で碑を建て、使者の霊を慰めている)で、千本の本光寺に隣接した北側西隅にあります。首の病に効験があると信じられています。

井上靖文学碑

多感な青春時代(沼中・現沼津東高)を沼津ですごした井上靖の文学碑。昭和38年建立。碑文「千個の海のかけらが千本の松の間に挟まっていた少年の日私は毎日それを一つずつ食べて育った。」

若山牧水歌碑

歌人。千本の地を愛し東京からこの地へ移り住み、43才の生涯をこの地で閉じた。「幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ國ぞけふも旅ゆく」千本浜公園内にある。

沼津御用邸記念公園

開園:9:00〜16:30 休園日:年末年始

旧御用邸にある公園。明治26年(1893年)に大正天皇(1912〜1926)が皇太子時代に静養のため造営した別邸、沼津御用邸。明治、大正、昭和の三代にわたり使用された。気温が温暖な駿河湾の最奥部にあたる沼津。前面に「駿河湾」背後には「富士山」という風光明媚な土地に、この御用邸はあります。昭和44年に廃止され、45年から記念公園として公開されており、明治時代を知ることのできる貴重な歴史ミュージアムとして邸内をご覧いただけます。

千本浜公園

東海道の名勝として知られてきた松林の続く浜で、富士を背に波静かな海をへだてて大瀬崎を望めます。松林の中にはこの地を愛した若山牧水の歌碑や井上靖の文学碑、噴水池などもあり、原まで続く遊歩道は、ウォーキング、ジョギングコースとして市民に親しまれています。

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