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鎌倉時代には屈指の繁栄街だったところ。日蓮は法華経(南無妙法蓮華経)こそが正法であるとし、念仏宗や禅宗の誤りを鋭く攻撃した辻説法のとき腰をおろして休んだという日蓮腰掛石を中心に説法跡とした。
鎌倉期五輪塔として典型的な形。重要文化財。51才のとき極楽寺に移り、寺城内外に施薬院、療病院などをたて貧民病者を救済した。1303年没。釈迦の誕生日である4月8日にだけ一般公開される。
理智光寺ガ谷の北側の丘陵上に立つ石塔。鎌倉宮の土牢に幽閉されていた親王は建武2年(1335)、足利直義(尊氏の弟)の命を受けた淵辺義博の手で暗殺された。親王の首はやぶの中に打ち捨てられたが、理智光寺(廃寺)の僧が手厚く葬ったという。
八幡宮の東鳥居を出ると筋違橋、そこから清泉小学校一帯が頼朝の館跡である。6町(660m)四方、東西南北に門を設け、寝殿、釣殿、侍所、問注所、持仏堂などが並んでいた。今は西御門という地名だけがわずかに残っている。昔、出陣した将軍は、周囲に幕を張って軍政を敷いた。そのことから将軍の館を幕府と呼ぶようになった。
鎌倉前期の政治家。幕府成立後京都より下り政所別当となる。源頼朝の信任あつく守護・地頭の設置を進言。頼朝死後も北条氏と協力し幕政の基礎を作った。西御門の他に、十二所の明王院の裏山にも大江広元の墓といわれているものがあります。
桜の名所・鎌倉山の山合いにある2つの池がある公園です。貴重な動植物が生息し家族みんなで自然とのふれあいができる公園です。
散在ヶ池は鎌倉湖とも呼ばれ、春には桜、秋には紅葉を湖面に映しだす神秘的な癒しスポットです。
源頼朝の持仏堂だったが頼朝の死後墳墓堂となった。世界文化遺産登録候補地。
北条一族が自刃した寺。寺跡碑がたつ。
北条早雲が三浦半島制覇の足場として永正9年(1512)に築いた。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原平定戦の際に、徳川勢に開城した。江戸に入部した家康は本多正信・水野忠守をこの城に入れたが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。清泉女学院のある丘陵一帯が城跡である。