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勢多尾城とも云う。現在は堀切の中に極めてめずらしい変形障子堀もある。16世紀前半頃より、阿蘇氏の戦闘城としての役割を果たしていたが、天正十年(1582)、肥後に侵攻してきた島津氏の2度に及ぶ攻撃で落城。自然の地形を利用し14本の堀切(尾根すじを分断した堀)、7つの郭(人工的な削平地)、変形障子堀などを有す、県内でも有数の大規模山城。近年の調査では「門跡」が発見されている。
昔の人たちは、お産があるとその胞衣(胎盤)をこの水で洗い清めて処置したと言い伝えられ、水中の石には、川ベニマダラという紅苔が付着している
浜戸川に架かる下鶴橋(安見橋)は嘉永元年(1848)の築造。アーチの美しさが特徴の美しい石橋です。石造りの欄干や親柱までが当時のまま残されており、その佇まいが周囲の景観に溶け込んでいます。保存状態良好。
文政12年(1829)に種山村(現在の東陽町)出身の石工・岩永三五郎の兄の嘉八によって、築造されたと言われています。薩摩街道に架けられ、架橋当時の姿がそのまま残され、温かな町の情景を醸し出しています。保存状態良好。
江戸時代末期に架橋。非常に珍しい技法であって類例としては、山口県の平安橋が知られている。
相良義陽と甲斐宗運との合戦場となった。
奈良時代末期に建立された古代寺院の跡で、延暦9年の創建の碑、天長3年の寺領を記した碑、康平7年の法華経の碑など九州最古の碑が現存する貴重な寺院跡である。
昔は小野部田から豊福にかけては山裾まで海だったため、娑婆神峠が北へ通じる幹線路だった。天正(1573〜1592)以前は人馬も越え難かったのを、鰐淵(今の城南町)の僧、立善が発願し、里人と協力して石畳の道路をつくった。この峠は大切な通路であるとともに、位置や険しさなどから、戦乱の時代には要塞にもなった。西南の役でも戦場となった。
3池により構成。桜・ツツジの名所。
女性9人が旧商家を修復し、文化活動の拠点として開館。コンサート、交流会等、喫茶、食事、貸し館。食事は要予約。