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玉縄城2代城主北条綱成が建てた瑞光院がこの寺のはじまりで、開山は泰絮宗栄と伝えられる。1575年(天正3)に4代城主氏勝が3代城主氏繁を弔うため現在の地に移し、氏繁の戒名により寺名を「龍宝寺」として建立。創建以来、玉縄北条氏の菩提寺で、綱成、氏繁、氏勝の位牌を伝える。山門から振り返れば、右手に玉縄城の諏訪壇があったあたりを望むことができる。
北条時宗が建立した禅興寺の塔頭(禅興寺は明治初年に廃絶)。開基は上杉憲方で、開山は密室守厳。境内を埋める数千本のアジサイは見事で、シーズンには多くの人で賑わう。臨済宗建長寺派寺院。
日朗(妙本寺の見解では日蓮聖人)を開山として1260年(文応1)に創建。もとは比企能員の屋敷で、比企一族が、北条氏を中心とする大軍に攻められ、滅ぼされた地でもある。その後、比企大学三郎能本が日蓮のためと比企一族の霊を弔うためお堂を建てたのが始まりといわれる。境内の祖師堂には日蓮の生前の姿をうつした三体の像の一つといわれる座像が安置されている。蛇苦止堂の蛇苦止明神は比企の乱で悲劇の入水をした若狭の局の霊が北条政村の娘にとりついて苦しめたのを慰めまつった。
もとは新居閻魔堂と呼ばれ、由比郷や海浜近くにあったが、1703年(元禄16)の地震、津波で堂が破損したため、その後、現在地に移った。鎌倉時代に普及した十王信仰を知ることができる。鎌倉二十四地蔵第8番。
奈良時代、関東に悪い病気が流行していたとき、聖武天皇にこの病気を排除するよう命ぜられた行基が、鎌倉へきて、前に広がった海原と後ろの山並みがとても美しいこの場所で祈りをささげると不思議に病気がおさまったといわれ、功徳をたたえてここに寺を建てることにしたといわれる。また、1185年(元暦2)に平家を滅ぼし凱旋した源義経は、頼朝の命令にそむいたとの理由で鎌倉入りを拒まれ、頼朝の怒りを解くことに努めたが許されず、逆に追われる身となったといわれる。
一乗日出を開山として1436年(永享8)に創建。足利持氏が鎌倉の夷堂があった場所に寺を建てて日出に寄進した寺院。二代目住職が日朝上人であったことから「日朝さま」という名で親しまれている。また、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」とも呼ばれている。
行基が開山と伝えられ、源頼朝入府以前からあった鎌倉最古の霊場といわれる。十一面観音と書かれた林立する幟旗と苔むした鎌倉石の階段が歴史を感じさせる。鎌倉三十三観音第1番。鎌倉二十四地蔵第4・6番。
鎌倉五山第四位。運慶作地蔵菩薩坐像は重文。鎌倉七福神の一つの布袋尊が祀られている。開山:南州宏海、大休正念、兀庵普寧開基:北条師時
真阿を開山、北条長時を開基として1251年(建長3)に創建。鎌倉時代は北条氏の菩提所であり、その後、足利尊氏蟄居の寺として足利氏との関係もでき、鎌倉御所の保護のもとで栄えたという。鎌倉三十三観音第25番、鎌倉二十四地蔵第16・17番。
1279年(弘安2)に作阿上人が開山し、時宗に改めたと伝える。本尊の阿弥陀如来像は「頬焼阿弥陀」の名で知られ、盗みの疑いをかけられた法師の身代わりになり頬に焼印が残ったという話が伝えられる(通常非公開)。鎌倉三十三観音第7番。鎌倉二十四地蔵第5番