高嶺大里城跡(南山城跡)
切石積みの石塁が残る。二代目城主承察度には子供がなかったため、没後は従弟の汪応租が後継者となったが、15年後にその兄の達勃期に殺された。しかし汪応租の子他魯毎が父の仇を討ち、四代目の王となった。やがて中山王尚巴志が南山城を狙い、家宝の金の風屏と南山城下の「嘉手志川」との交換を申し出た。他魯毎は承諾する。尚巴志は自分のものになった井戸を監視し、自分に従わない者には使用を禁じた。こうして地元民を輩下に組みこんだ尚巴志は宜徳4年(1429)に南山城を攻略した。現在は城壁と遺構の一部を残すのみで、大半が高嶺小学校の敷地内にある。