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南側を千曲川の断崖に、北側を湯川の断崖に囲まれた大井一族の城跡です。現在は神社になっています。文明年間(1469〜87年)、大井氏により築城されました。天文12年(1543年)には武田氏によって落城し、真田幸隆に守らせたが、後には武田氏に服従した大井氏が城主に戻りました。武田氏滅亡後、徳川家康の家臣であった依田信蕃の攻撃を受けます。佐久の諸城を落した信蕃でしたが、この岩尾城で激しい反撃にあい、弟信幸と共に戦死しています。
旧中山道沿いに残る「皎月輪」の伝説の地です。毎年9月中秋の名月にお祭りが開かれ、知恵の団子が配られます。昔、皎月という女官が平尾に流されてきました。白馬を愛した皎月はある時、小田井の原へ馬を引き出して乗り回していました。ところがこの白馬は天の竜馬で、空を駆け回った後、平尾山の頂上に立ち止まり、「われはただひとではない。白山大権現であるそ。」と言って、光を放ち岩の中へ入ってしまいました。その後皎月が輪乗りした場所からは植物が生えてこなかったと言われています。
築城時期は定かではありませんが、平安にj第末期に甲斐武田源氏の祖となった源義清の弟盛義が居を構え、平賀氏を称し、その子義信が築いたと伝えられています。平賀氏は源頼朝に重用され、一ノ谷合戦等で軍功を挙げました。文安3年(1446年)、小笠原氏・大井氏などと争い本流は滅亡し、後に武田氏の配下の属城となりました。規模の大きい城で、「居城」の色合いが濃く見てとれます。石積み遺構が充実しており、緩やかな山腹を補うように回されている腰曲輪が印象的です。標高840mの山頂から佐久平を一望できます。
営業:9:00〜16:00
井出家は江戸時代初期に名主を勤め、その後も代官宿泊所ともなった旧家でこの座敷も宿泊に当てられたもの。書院造り、木造平屋。
一間社流れ造りでとち葺き屋根の線の流れが美しい。祭神に騎乗の男女二神像を安置しています。望月の牧の東の守りとして創建されたと考えられています。現本殿は文明8年(1486年)の再建と伝えられています。
八幡宿は、江戸より二十四番目の宿場町で、幕末の動乱期、江戸幕府弟14代将軍の徳川家茂に降嫁した皇女和宮が宿泊しており、和宮から下賜(かし)された物品などが現在も伝えられている。近くには八幡神社や国の重要文化財に指定された高良社がある
鼻顔稲荷神社境内に、ケヤキと赤松が双生した「相生の樹」がある。縁結びにご利益があると評判。
蓼科山麓に展開するリゾート地・別荘地。蓼科スカイライン上に位置しています。
360度パノラマの遠望できる草原です。近くは蓼科山、北横岳、遠くは佐久平から浅間山が見えます。
佐久平が一望できる佐久市民の森です。野鳥、桃の花、紅葉と四季を通じて自然に親しむことができます。