全日本の観光地へ
梅製品・ゆず製品などを始めとする加工品や農産物を販売する直売所です。町のほぼ中央に位置し、ハイカーの休憩所としても利用されています。
岩と檜の露天風呂と内風呂、水着ゾーンの12種類のお風呂やキャンプ場とバーベキュー場などが整っているリフレッシュ施設です。
昭和30年12月8日落成。正法寺裏手の大観山に建てられた戦没者納骨堂で、海外から帰国した200余柱の遺骨が眠る。毎年5月第2土曜日には「世界無名戦士並びに越生町戦没者追悼式」が行われ、稚児行列が戦没者の霊をなぐさめ、夜には盛大な花火大会が開かれ、大勢の観客でにぎわう。
飯能戦争に敗れた振武軍の副将だった渋沢平九郎の墓がある。武蔵越生七福神の布袋尊が祀られている。
もとは高房山(こうぼうやま)と言われていた。また、参拝者の絶えない子育て観音は、明治初年に廃寺となった高房山妙見寺の観音堂で、乳房をかたどった縫いぐるみを奉納する風習がある。武蔵越生七福神の弁財天が祀られている。
古くは、神仏習合の社であった。小杉天神社と称した江戸時代には、本山派修験山本坊配下の大泉院が社務を司っており、明治維新の神仏分離令を経て、明治40年に堂山の近戸神社と上谷の三島神社などを合祀して梅園神社と改称した。
曹洞宗関東三箇寺の一つと言われた名刹です。草創は大同2年(807)と伝承され、永享2年(1430)に室町幕府の第6代将軍足利義教が関東管領上杉持朝に命じ、無極慧徹を招いて復興したのを開基とする。文明4年(1472)に太田道真・道灌父子が泰叟妙康(第三世)を招いて中興し、曹洞宗の大寺院に発展した。また、境内には太田道真・道灌父子の墓がある。武蔵越生七福神の毘沙門天が祀られている。
奈良時代の天平年間に東国地方を行脚中の行基が創建したと伝えられる古刹である。「法恩寺年譜」によると、荒廃していた寺の再興を越生氏一族の倉田孫四郎基行らが源頼朝に願い出て、頼朝が越生次郎家行に命じて、建久元年(1190)に復興させたという。また、多数の重要文化財が残されている。武蔵越生七福神の恵比寿が祀られている。
鎌倉の臨済宗建長寺の末寺で、鎌倉時代に創建された。南北朝時代の貞和時代(1345〜1349)に足利尊氏が中興したと伝えられている。室町時代に焼失、再建され、江戸時代には寺領10石が朱印地として認められていた。また江戸時代から寺子屋が開かれ、明治初年には「正法寺の学校」と呼ばれていた。武蔵越生七福神の大黒天が祀られている。
建久4年(1193)に源頼朝が児玉雲太夫に命じて建立させたと伝えられている。武蔵越生七福神の福禄寿が祀られている。