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商家「糸治」(旧中村家住宅)

公開:盛岡市中央公民館の開館に準ずる。

中村家は、「糸屋」または「糸治」と呼ばれた城下町盛岡でも屈指の豪商家で、呉服・古着を中心に商っていた。建物はたびたび改築や修理がおこなわれたが、現在の主屋は文久元年(1861)に造られたものである。また土蔵は明治期の建築だが、主屋と機能的にも景観のうえからも切り離せないものとして同時に国の重要文化財に指定された。130年余の歴史をもつ町家で白壁の土蔵は明治時代のものだが2階の木格子窓と1階庇廊下の格子戸の調和、それに右手端にある防火用「うだつ」がアクセントとなり美しい姿を見せている。中村家は屋号「糸洽」と称し、呉服・古着を商い、明治になって紫紺染本舗として繁盛した。

木津屋本店

この建物は,棟札(むなふだ)より1834年(天保5年)に建築されたことがわかっており,松材を主に用いた土蔵造りの商家店舗兼住宅です。この付近は惣門(そうもん)といわれ,江戸時代は城下町の南の玄関口として,奥州道中(おうしゅうどうちゅう)(街道)沿いに盛岡の代表的な商人が店を構え,蔵が建ち並び,活気のある様相を呈していました。この建物は,その当時の商家の面影を残す数少ない町家(まちや)の一つであり,現在も会社の事務所として使用されています。建物は,二方向が道路に接しており,南側道路に店舗が,西側道路には住居の出入口が面し,それから入ると通り土間があり,床上2列の部屋形式の町屋となっています。店舗には独立した土間(客溜り)があり,店側と住居側と区別があるのが特徴です。西側の通り土間と1列の部屋は吹抜けとなり,天井高く小屋顕しで,2列目の部屋は2階建であるので,2階の部屋より吹抜けの通り土間が見えるように空間構成されています。木造2階建で,屋根は鉄板瓦棒葺き(瓦棒は三角形),下家その他は桟瓦葺,外壁は木造軸組の外部仕上を上塀式に塗り上げられ,軒天井の垂木,野地板等の木部は全て漆喰押えで防火造りとなっています。店舗2階の道路側窓の木格子は,1メートル単位ぐらいに内部から取り外して非常時に避難できるようにしたり,また店舗と客溜りの境界には上げ下げの板戸が鴨居上におさめられるようになっていて,閉店になると板戸をおろして,客があれば小窓をあけて応接できるようになっています。2階への階段には,2階床面で板戸を水平にスライドさせ昇降できないようにしたり,地下室への出入り口には蓋をすれば砂が落ちるように工夫してあったり,防盗・防火・避難に注意が払われているのが随所に見られます。

商家「茣蓙九」

営業:月火水木金土8:30〜17:30

江戸末期から明治にかけての燈明用の「燈心売」や藁工品を取り扱った豪商の面影を今に伝える貴重な商家。母屋と裏側の土蔵7棟、川べりの土蔵は盛岡を代表する景観となっている。現在も竹製品などの日用雑貨の老舗として親しまれており、昭和54年4月5日に盛岡市保存建造物に指定された。

岩手銀行(旧盛岡銀行)旧本店本館

見学:外観のみ見学可能

赤煉瓦造りに緑のドームとルネッサンス風の輪郭の厳格さを現わしており,当時の洋風建築の特徴をほぼ完全な姿で伝えている。内部には付け柱を用い、天井に石膏モチーフを施す等豪かな内装が明治期の銀行建築の姿を良く示している。設計は東京駅でも知られる、辰野・葛西建築設計事務所による。辰野金吾が設計した建築としては東北地方に唯一残る作品でもあり、昭和52年1月20日に盛岡市保存建造物に指定された。平成24年8月3日銀行としての営業を終了した。

岩山展望台

標高約340mの頂上にあり,盛岡駅から車で15分の所に位置する岩山の展望台は,市街地はもちろん,岩手山や八幡平を含む奥羽山系から北上山系まで一望でき迫力満点。背後には岩手山が望める。盛岡全景を望む夜景スポットとしても人気がある。

愛宕山展望台

市街地に隣接する愛宕山に、平成5年皇太子殿下の御成婚記念として整備されました。市内を見渡す展望台を中心としたメイン広場には妃殿下雅子様ゆかりの「ハマナス」三輪が描かれています。

いーはとーぶアベニュー材木町

宮沢賢治ゆかりの民芸品店(「注文の多い料理店」の出版元)をはじめ、陶器、木綿、漆器、木工家具などていねいな仕事を重んじる店が軒を並べ、最近は骨董店やミニギャラリーも通りに趣を添える。宮沢賢治ゆかりの6つのモニュメントが通りに並び、4月〜11月下旬までの毎週土曜日の夕刻には「よ市」が開催される。通りの商店街だけではなく近郊の農家も店を並べ、イベントも開催され、市民や観光客など多くの人で賑わう。

寺町通り

市中心部から北寄りの名須川町界隈は、お寺や神社が十社余り続く寺の町。この周辺にお寺が集中したのは南部盛岡藩時代のことである。藩ではその権威と城下の繁栄を願って、領内の由緒ある寺を二つの地区に移した。それが寺町通りのある、北山寺院群と南の寺の下寺院群(盛岡市大慈寺町)で、現在でも北山と名須川町周辺には20軒あまりのお寺がある。かつて沿岸と内陸を結ぶ重要な街道だった寺町通りは、あたらしい道に生まれ変わったが道路の両側には白壁、南部鉄器の街路灯、ケヤキの大木、歩道は石畳風で、寺院の木造建築美とともに風情ある景観を創出し、「日本の道百選」にも選ばれている。

龍谷寺のモリオカシダレ

龍谷寺(りゅうこくじ)は明治4年から明治28年まで石川啄木の母方の伯父、葛原対月(かつらはらたいげつ)が住職だったお寺です。対月の弟子であった啄木の父、一禎(いってい)と対月の妹であった啄木の母カツが結ばれたのもこの寺でした。対月は早くから和漢の書を修め、易学、茶道に通じていましたが、特に和歌に関しては一禎に大きな影響を与えました。少年時代の啄木はしばしばこの寺を訪れ、伯父の対月から詩歌の手ほどきを受けたといわれています。境内にあるこのモリオカシダレは国の天然記念物に指定されており、春になると市民の目を楽しませてくれます。枝垂性のヒガンザクラとオオシマザクラ系のサトザクラの交配によってできたもの、と推定されています。

石割桜

盛岡地方裁判所の構内にある石割桜は、盛岡のお国自慢をするとき、「石割桜こそ日本一の名桜」などといって、よく取り上げられる珍しい桜です。巨大な花崗岩の岩の狭い割れ目に直径約1.35メートル、樹齢が360年を越えるといわれるエドヒガンザクラが生育しているのです。巨大な花崗岩と調和した威厳ある美しい姿と珍しさでは、日本一といっていいのではないでしょうか。この石割桜にもかつて危機がありました。昭和7年に盛岡地方裁判所が火災に遭い、石割桜も北側の一部が焼けましたが、幸い全焼を免れ翌春には再び花を咲かせたのでした。現在は保護管理も良く、毎年見事に開花を続け、たくさんの人の目を楽しませています。ここは南部藩主の分家にあたる北監物の庭園であったといわれ、明治初期には桜雲石と呼ばれていたようです。1923(大正12)年、国の天然記念物に指定されています。

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