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ひめゆりの塔

ひめゆり部隊は、昭和20年3月、軍の要請によって師範学校女子部、第一高女生徒320名で結成され、南風原陸軍病院に特志看護婦として配属された。彼女らは常に地下水のしみる狭い壕内で看護活動を続け、食事の世話から遺体の埋葬まで17〜8才の乙女には痛ましいほど働き続けたという。部隊の南下にともなって彼女らの中からも死傷者がではじめた。塔のそばにある洞窟は、南下した第3外科壕のあったところで、敵軍に包囲され一歩も外へ出ることができず、自決する者や、アメリカ軍の毒ガス攻撃で、約200人の生命がうばわれた。女子部生徒211名及び職員16名を合祀している慰霊塔である。

沖縄師範健児之塔

糸満市摩文仁丘の麓にあって、沖縄師範学校の野田貞雄校長他、17名の職員と、生徒289名、計307名を祀ってある。沖縄師範学校に、昭和20年3月31日、召集令が下り、同日夕刻予科2年より本科3年までの386余名の生徒は鉄血勤皇師範隊を編成し、本部、斬込隊、千早隊、野戦築城隊、特別編成隊を組織して、4月1日より軍の作戦に参加した。最初は軍と共に首里戦線で活動したが、5月下旬より戦況不利になったので司令官とともに南部地区へ移動し、最後にこの摩文仁の壕まで退却した。6月19日、解散命令の出たあと敵軍に斬り込む者、この壕内で自決する者など、多くの犠牲を出した。終戦後、生存者及び竜潭同窓会員の寄附によってこの塔ができた。

平和の塔

沖縄本島最南の喜屋武岬にある第62師団管下の部隊は、喜屋武の複廓陣地において、進行を続け米軍に対して第五の迎撃を続けたが、昭和20年6月20日、喜屋武部落周辺で全滅した。昭和27年10月、地元民は部落内やその周辺海岸に散在する将兵並びに住民の遺骨1万余柱を収集して、名城ビーチの西海岸に納め、平和の塔を設立、さらに昭和44年3月、(財)沖縄協会の助成を得て、現在の場所に改修移転した。

白梅之塔

県立第二高等女子学校の稲福全栄校長以下職員11柱、白梅学徒看護隊27柱、同窓生101柱、合計132柱が合祀されている。白梅隊(4年生)55名は、昭和20年3月6日、東風平国民学校在第24師団第一野戦病院衛生看護教育隊に入隊、看護師としての特別集中教育を受けていたが、米軍の艦砲射撃が始まると、直ちに東風平村八重瀬岳の山部隊第一野戦病院へ配置され、昼夜の別なく傷病兵の看護に当たった。戦況が悪化し、6月4日、白梅隊は軍の解散命令を受け自由行動を余儀なくされて、鉄の暴風雨の中で20名が次々と戦死を遂げている。白梅隊の一部は解散後、この地に撤退し、最後まで傷病兵の看護に専念、6月21日、米軍の猛攻撃に遭い、戦没した。ここは白梅隊のもっとも多くの犠牲者がでたところである。昭和22年1月、自然石の小さな碑を建て第1回の慰霊祭が行われた。昭和26年8月に立て替えられ、再度平成4年6月に現在のように改修された。

魂魄之塔

糸満市米須部落の南方300mの海岸よりにある。ここは沖縄戦最後の激戦区であり、日本軍も住民も米軍に追い詰められて逃げ場が無く、陸海空からの激しい攻撃を受けて倒れた者が数多い。敗戦後、米須は真和志村民が移動収容されたところであった。この旧真和志村民が米軍の許可を得、遺骨収集班を結成して道路や畑、丘や森に散っていた遺骨を集め納骨堂を完成して祀ったのがこの魂魄の塔である。

黎明之塔

摩文仁岳の西端に建つ旧日本軍第32軍司令官牛島満中将と長勇参謀長の慰霊塔。

バックナー中将碑

米第十軍指令官サイモン・B・バックナー中将は、昭和20年6月18日、戦闘指揮中、この地で死亡した。昭和27年、米軍の手により記念碑が設立されたが、昭和49年に米軍より、キャンプフォレスターに移設されたため、昭和50年6月に沖縄慰霊奉賛会により現在の碑が設立された。

追い込み網漁(アギヤー)

漁業の街、糸満の海人によって考案され昔から行われてきた伝統的な漁法。海中にもぐった漁夫が魚を網に追い込み一網打尽にする方法で、現在では伊良部島・佐良浜地区で営まれている。

沖縄県営平和祈念公園

開園時間:園内への出入りは自由(一部施設を除く)

沖縄戦終焉の地となった摩文仁の地にある県営公園。園内に建設された沖縄県平和祈念資料館・敵味方の区別なく沖縄戦で戦死した23万余の犠牲者の名を刻んだ平和の礎・国立戦没者墓苑がある。

轟の壕

定休日:無し

全長100mの東西に伸びるガマと呼ばれる自然壕で、戦時中、名城の住人や他地域の住民から避難壕として利用されていました。ほぼ当時の状況のまま今も残されています。

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